戦艦「三笠」進水(1900年11月8日)
日本海軍は日清戦争に勝利するとロシア帝国との開戦に備えて軍拡を進めました。海軍の戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻の配備計画「六六艦隊計画」で敷島型戦艦の四番艦として建造されたのが戦艦「三笠」です。同型艦として「敷島」「朝日」「初瀬」の3隻が建造されています。
「三笠」は日本で建造された戦艦ではなく日本海軍がイギリスのヴィッカース・サンズ&マキシム社に発注し建造されました。明治32年(1899年)1月24日、バロー=イン=ファーネス造船所で起工し明治33年(1900年)11月8日に進水しました。明治35年(1902年)1月に試験が行われ同年年3月1日に竣工しサウサンプトンで行われた引き渡し式で日本海軍が受領しました。同年3月13日にイギリスのプリマスを出港し、スエズ運河経由で同年5月18日に横須賀港へ入港しました。横須賀で整備を行い同年6月23日に船籍港の舞鶴港に向けて出港し、同年7月17日に着任しました。 「三笠」の初代館長には早崎源吾大佐が就任しました。
戦艦「三笠」は明治36年(1903年)12月28日に連合艦隊旗艦となり明治37年(1904年)2月6日から日露戦争に参戦、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将らが座乗しました。いくつかの交戦を経て明治38年(1905年)5月27日から28日にかけて日本海で行われた日本海海戦でロシアのバルチック艦隊と戦いました。このときの艦長は三代目艦長の伊地知彦次郎大佐です。
この海戦において東郷平八郎はイギリス海軍がフランス・スペイン連合艦隊をスペインのトラファルガー岬沖合で破ったトラファルガー海戦の信号文「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」にならい、「三笠」に「皇國ノ興廢此ノ一戰ニ在リ、各員一層奮勵努力セヨ」という意味を持たせ国際信号旗のZ旗を掲揚しました。これがきっかけとなり日本海軍でZ旗の掲揚は特別な意味を持つことになりました。
日露戦争終結後の明治38年(1905年)9月11日、佐世保港に停泊中の「三笠」は弾薬庫で爆発事故が発生し沈没しました。この事故で多数の死者が出ましたが東郷平八郎などの上官は上陸していたため難を逃れています。事故の原因は兵員の飲酒時の悪戯とも弾薬の変質とも伝えられています。この事故のため同年10月23日に執り行われた凱旋式では「敷島」が旗艦となり「三笠」は予備艦となりました。
「三笠」は明治39年(1906年)8月14日に引き上げられ佐世保工廠にて修理されることになりました。明治41年(1908年)に修理が完了し第一艦隊旗艦として現役に復帰しました。大正時代になるとシベリア出兵など北方警備を務めるようになり大正10年(1921年)9月1日に類別が海防艦に変更されましたが、まもなくワシントン海軍軍縮条約により除籍されることになりました。
大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の際に横須賀港で岸壁に衝突し浸水により着底しました。「三笠」は同年9月20日に除籍となり解体されることになりましたが「三笠」の活躍は高く評価され保存運動が起こりました。そこで現役に復帰できない状態で保存されることになりました。大正14年(1925年)1月に記念艦として横須賀に保存されることになりますした。「三笠」は舳先を皇居に向けられ海底に固定され砲塔などの兵装は木製で作られたものが取り付けられました。現在、「三笠」は神奈川県横須賀市の三笠公園に記念艦として現存してます。
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