毛利元就が「三子教訓状」を記す|「三矢の訓」との関係(1557年11月25日)
60歳を迎えた毛利元就は弘治3年(1557年)11月25日に周防国富田(現・山口県周南市)の勝栄寺において息子の毛利隆元・吉川元春・小早川隆景に宛てに書状「三子教訓を記しました。この「三子教訓状」は14条からなり元就が息子たちに3人で一致協力し毛利家を末永く盛り立てていくことを諭したものです。
また毛利元就は晩年に病床に隆元・元春・隆景を呼び「1本の矢は簡単に折れるが3本纏めると折れない。3人がよく結束して毛利家を守るように」との遺訓を残したと伝えられています。息子たちは父の遺訓に従い毛利家を守ることを誓いました。これが有名な「三本の矢」の話で有名な「三矢の訓」逸話です。
しかしこの逸話には史実と齟齬があります。毛利元就が死没したのは元亀2年(1571年)ですが、長男の毛利隆元は8年前の 永禄6年(1563年)に急逝しています。吉川元春は尼子家との戦いで出雲に長らく出陣中でした。そのため元就の臨終を見届けたのは小早川隆景と元就の孫で毛利隆元の嫡男の輝元と伝えられています。
それでは「三矢の訓」が全くの作り話かというと江戸幕府重臣の酒井家に伝わる「前橋旧蔵聞書」にこの逸話に似た伝記が記されています。その伝記には元就が多くの子どもたちを集めて「1本の矢では簡単に折れるが多数の矢を束ねると折れない。皆で一致協力して毛利家を永続させるように」と教えたことが書かれています。この伝記の注目すべき点は隆元と元春の名は出てこず隆景以下の子どもたちが登場していることです。登場人物は史実に合致していますから実際にあった話の可能性はあります。
この記事の最初に照会した「三子教訓状」には矢の喩え話は出てきませんが教えの骨子は一致協力せいよという点で「三矢の訓」と同じです。しかしながら両方の話には直接的な関係はないと考えられます。なぜなら3人と3矢の「三矢の訓」は明治時代に成立していますが、隆景以下の子どもたちと矢束の「前橋旧蔵聞書」が公開されたのは大正時代だからです。ただし「前橋旧蔵聞書」の伝記と同様の話は江戸時代には既に伝わっていました。「前橋旧蔵聞書」が公開後は「三子教訓状」と「三矢の訓」が混同し「三矢の訓」は「三子教訓状」をもとにした逸話と言われるようになったと考えられます。
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