ドラマ「私は貝になりたい」放送開始(1958年10月31日)
1958年10月31日にラジオ東京テレビ(KRT、現TBS)の「サンヨーテレビ劇場」で岡本愛彦演出、フランキー堺主演のテレビドラマ「私は貝になりたい」が放送されました。脚本を担当したのは黒澤明監督の映画をはじめとする脚本を手がけた橋本忍さんです。第二次世界大戦に招集された理髪店主が上官の命令で捕虜を刺殺したことでB級戦犯として逮捕され処刑されるまでの物語を描いたドラマです。死刑を宣告された主人公は次のような遺書を残します。
こんな酷い目に遭わされるのなら牛や馬の方が良い。
牛や馬にも生れません、人間にいじめられますから。
いや、牛や馬になってもきっとまた人間に酷い目に遭わされる。
いっそのこと深い深い海の底の貝に…。そうだ、貝が良い。
どうしても生まれ変わらなければいけないのなら、
深い海の底で戦争も兵隊も無い、
家族を心配することもない、
私は貝になりたい
橋本忍さんは当時の「週間朝日」に実際の遺書として引用された志村郁夫著「狂える戦犯死刑囚」の遺書部分にヒントを得てドラマの脚本を書き下ろしました。「狂える戦犯死刑囚」は1953年2月に光文社から出版された飯塚浩二編「あれから七年――学徒戦犯の獄中からの手紙」に寄稿されたもので、志村郁夫は捕虜の虐待と殺害の容疑でBC級戦犯として服役中の加藤哲太郎さんのペンネームでした。その遺書の部分には次ように書かれていました。
いや、私は人間になりたくありません。
牛や馬にも生れません、人間にいじめられますから。
どうしても生れかわらなければならないのなら、
私は貝になりたいと思います。
貝ならば海の深い底の岩にヘバリついて何の心配もありません。
兵隊にとられることもない。戦争もない。
妻や子供を心配することもない。
どうしても生まれかわらなければならないのなら、
私は貝に生まれるつもりです。
飯塚浩二編「あれから七年――学徒戦犯の獄中からの手紙」(光文社)
1958年4月、加藤哲太郎さんが出所するとは同年10月31日と12月10日に「私は貝になりたい」が放送されました。加藤哲太郎さんはドラマの主人公の遺書が自分の書いたものに酷似しているとして脚本の橋本忍さんに原作者として認めるよう主張しました。しかし、橋本忍さんは遺書部分はヒントにしたものの脚本そのものは自分が創作したものとして認めませんでした。加藤哲太郎さんはドラマの映画化が決まったときに配給もとの東宝と自身を原作者とすることを条件に契約しました。監督をすることになっていた橋本忍さんもこの契約を承諾しました。
こうして1959年4月12日に公開されたのが橋本忍さんの初監督作品の映画「私は貝になりたい」です。原作は「物語、構成 橋本忍」「題名、遺書 加藤哲太郎」とされました。主演はテレビドラマと同じくフランキー堺さんが務めましたが他の出演者はほとんど変更となっています。
これで加藤哲太郎さんの主張は認められたように思われましたがラジオ東京テレビ(KRT、現TBS)が同年12月にドラマ「私は貝になりたい」を原作者のクレジットを変更せずに再放送しました。これに対して加藤哲太郎さんはジオ東京テレビ(KRT、現TBS)と橋本忍さんを著作権法違反で訴えました。1960年11月に加藤哲太郎さんと東京放送(ラジオ東京テレビKRT、現TBS)の間で映画と同じクレジットを入れることで和解が成立しました。以降は映画のクレジットにそった記載がされるようになりました。
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