「神風連の乱(敬神党の乱)」勃発(1876年10月24日)|明治政府に対する士族の反乱
明治維新後、政府は政治の改革を進めましたがこれに反発する士族も少なくありませんでした。明治4年(1871年)には廃藩置県を行い江戸幕府以来続いてきた藩を廃止し府県に改め中央集権化を図りました。明治6年(1873年)には地租改革が行われ従来の封建的な制度が廃止されました。こうした改革によって士族は失業することになり利権を失っていったのです。多くの士族は農業や商業に従事しましたが失敗するものも少なくありませんでした。やがて士族の間で政府に対する不満が高まるようになり各地で暴動が起きるようになりました。
明治7年(1874年)には組織的な士族の反乱「佐賀の乱」が勃発しました。
【参考】「佐賀の乱」勃発(1874年2月1日)|明治政府に対する士族の反乱
明治9年(1876年)には「廃刀令」が公布され武士の魂である刀を帯刀することが禁止となり士族の不満は高まりました。
【参考】廃刀令の公布で武士の帯刀が禁止に(1876年3月28日)
この「廃刀令」をきっかけとして熊本で旧肥後藩の士族が起こした反乱が「神風連の乱(敬神党の乱)」でした。旧肥後藩では教育方針に関する派閥がありましたが、このうち国学と神道を基本とする教育を重視していたのが「勤皇党」でした。「勤皇党」の中で明治政府への不満を抱く太田黒伴雄、加屋霽堅、斎藤求三郎らは「廃刀令」の反対運動を進めるため「敬神党」を結成しました。「敬神党」は総勢約170名となりましたが反対するものも少なくなく「神風連」と呼ばれ揶揄されました。
「敬神党」の不満は募り熊本鎮台を制圧すべく反乱を起こすことを決意しました。明治9年(1876年)10月24日深夜、熊本鎮台司令官の種田政明、熊本県令の安岡良亮を殺害後、熊本城内の政府陸軍部隊の熊本鎮台を襲撃し制圧しました。翌朝、明治政府は児玉源太郎らを派遣し「敬神党」への反撃を開始しました。
政府軍の攻撃によって加屋霽堅、斎藤求三郎は死亡、太田黒伴雄も銃撃を受けて自刃しました。盟主を失った「敬神党」は壊滅し多くの者が自刃しました。 「神風連の乱(敬神党の乱)」の死者は敬神党が124名。捕縛された約50名の一部が斬首されました。政府軍の死者は約60名、負傷者約200名と伝えられています。
明治政府への不満を士族による反乱はこれに止まらず同年には「秋月の乱」や「萩の乱」が勃発しています。そして明治10年(1877年)に西郷隆盛を盟主とする西南戦争に至るのです。
【関連記事】
・「佐賀の乱」勃発(1874年2月1日)|明治政府に対する士族の反乱
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