薩摩藩と長州藩に討幕の密勅が下される(1867年10月14日)
文久4年(1864年)、参預会議が崩壊すると薩摩藩は将軍後見職の徳川慶喜をはじめとする幕府との対立を深めました。慶応2年(1866年)末に慶喜が15代将軍に就任すると、慶応3年(1867年)5月に薩摩藩は参預会議を再現すべく働きかけ、国事について議論する四侯会議が設けられました。改めて長州藩の処分問題と横浜鎖港問題が議論されましたが折り合いがつかず、慶喜が政治力で佐幕派公卿を見方につけ議論を強引に進めたことで四侯会議も崩壊しました。これをきっかけに薩摩藩はの同年5月21日に長州藩と「薩土討幕の密約」を結び倒幕に向かいました。これによって諸藩や朝廷の討幕派への追い風となり倒幕運動に拍車がかかりました。
このような状況の中で公家の岩倉具視と薩摩藩の大久保利通が主導し討幕を進めるための画策を行いました 慶応3年(1867年)10月13日、利通は長州の広沢真臣ととも具視のもとを訪れ朝敵とされていた長州藩の藩主父子位復旧の沙汰書を受けました。翌14日に正親町三条実愛
が三条邸にて利通と真臣に「討幕の密勅」が手渡されました。同時に薩長両藩に会津藩主の松平容保と桑名藩主の松平定敬の誅戮を命ずる勅書も出されました。
この 「倒幕の密勅」は薩摩藩の島津久光父子宛のものは10月13日付け、長州藩の毛利敬親宛のものは10月14日付けとなってていました。慶喜が賊臣とされましたが天皇の直筆はなく中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の花押もありませんでした。当時、孝明天皇の知らないところで多くの偽勅が出されたことから「倒幕の密勅」も偽勅と考えられいます。具視が主導的な役割を果たしたと考えられています。
しかしながら、慶喜は同日10月14日に大政奉還を上奏しました。朝廷は翌15日にこれを受理したことから討幕の名目が失われました。同年10月21日、薩摩藩と長州藩に対し討幕の実行延期の沙汰書が下されました。
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