「萩の乱」殉国軍が挙兵(1876年10月28日)|明治政府に対する士族の反乱
長州藩士の前原一誠は荻の出身で安政4年(1857年)に高杉晋作や久坂玄瑞らとともに吉田松陰の松下村塾で入門しました。幕末の倒幕運動で活躍し戊辰戦争では参謀として北越戦争に参戦し会津戦線で活躍しました。維新の十傑の一人に数えられています。
一誠は維新後は明治政府の要職につき兵部省初代大輔の大村益次郎が死亡すると兵部省大輔を兼任しました。しかし、益二郎が提唱していた徴兵制「国民皆兵」に異論をもっていました。これにより木戸孝允と対立し、同じく徴兵制支持の山縣有朋との対立により下野して荻に戻りました。こうして明治政府に対し不満を募らせるようになりやがて各地の士族と連絡を取るようになりました。
このような状況の中で明治9年(1876年)10月24日に熊本県で「神風連の乱」、同年10月27日に福岡県で「秋月の乱」が起こると、一誠はこの2つの士族の乱に呼応し旧藩校の明倫館を拠点に「殉国軍」を結成し同年10月28日に挙兵しました。「殉国軍」は県庁の襲撃を企てましたが度重なる士族の反乱に警戒していた新政府は「殉国軍」の動きを察知していました。一誠は計画を変更し天皇に直訴をするため東上することを決意しましたが悪天候に阻まれ同年10月31日に明倫館に戻りましたが政府軍と交戦となり鎮圧されました。
このとき一誠ら幹部は「殉国軍」と別れて密かに東京に向かいましたが悪天候で出港を見合わせているときに通報され11月5日に包囲されました。一誠らは釈明の機会を条件に投降し逮捕されました。同年12月3日、山口で裁判が行われましたが釈明の機会を与えらぬまま判決が下り斬首されました。
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