「秋月の乱」の秋月党が挙兵(1876年10月27日)|明治政府に対する士族の反乱
明治6年(1873年)10月14日の閣議で征韓論が議題に上り政府内で対立が起こりました。征韓論を主張する西郷隆盛、板垣退助、副島種臣、江藤新平が下野しました。明治政府に対する旧幕臣の士族の不満が高まり、明治7年(1874年)2月1日に佐賀県で江藤新平と島義勇らが明治政府に対する士族の反乱「佐賀の乱」(佐賀の役、佐賀戦争)が起こしました。新政府軍は「佐賀の乱」を鎮圧しましたが士族の不満は高まるばかりでした。
【参考】「佐賀の乱」勃発(1874年2月1日)|明治政府に対する士族の反乱
明治9年(1876年)10月24日、熊本で廃刀令の発令の反対を運動をきっかけとして旧肥後藩の士族が結成した敬神党が「神風連の乱(敬神党の乱)」を起こしました。児玉源太郎らが率いる新政府軍は「神風連の乱(敬神党の乱)」の鎮圧に成功しましたが、旧福岡藩の支藩の旧秋月藩の士族の今村百八郎らが敬神党の決起に呼応して約400名からなる秋月党を結成し同年10月27日に「秋月の乱」を起こしました。
【参考】「神風連の乱(敬神党の乱)」勃発(1876年10月24日)|明治政府に対する士族の反乱
今村百八郎は秋月党の動きを物見していた福岡県警察官の穂波半太郎を捕らえて尋問しました。穂波が旧福岡藩士と名乗ると百太郎は半太郎を殺害、半太郎は福岡県殉職警察官の最初の殉職者となりました。
その後、旧秋月藩の士族は同時に決起することを約束していた旧豊津藩の士族と行動をともにするため豊津に向かいました。同年10月29日に豊津に到着しましたが旧豊津藩の士族たちは決起しないことを決めていました。旧豊津藩からの連絡を受けて乃木希典が率いる小倉鎮台が到着し秋月党との戦闘を開始しました。
同年10月31日、秋月党は壊滅しました。その後、百太郎は秋月に戻り新政府軍の秋月党討伐本部を襲撃、拘留されていた反乱士族を救出し逃亡しましたが11月24日に逮捕されました。12月3日に福岡臨時裁判所で関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた今村は斬首されました。
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