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2024年10月

2024年10月 3日 (木)

【おもしろ映像】納豆を1万回かき混ぜるとどうなる

ココログ「夜明け前」公式サイト

 自分は納豆を食べるとき25回ぐらいかき混ぜます。ほどよくネバネバし旨味が増しナットウキナーゼも吸収されやすくなるそうです。

 これはずいぶん前の動画ですが納豆を1万回混ぜるとどうなるか?というビデオがYouTubeにありあした。

【おもしろ映像】納豆を1万回かき混ぜるとどうなる

 最後はどうなるかというとこうなるようです。そりゃそうだよね 。

納豆一万回混ぜるとどうなる?

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2024年10月 2日 (水)

幕末の混乱期に大地震|安政江戸地震(1855年10月2日)

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 安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時頃、関東の南部でM7を超える大地震が発生しました。この地震は「安政の大地震」とも呼ばれますが同時期に多発した他の地震と区別するには正式な名称の「安政江戸地震」と呼んだ方が良いでしょう。

 「安政江戸地震」は江戸を中心に大きな被害をもたらし、特に隅田川の東側地域で震度6を超える強い揺れが発生したと推定されています。江戸の下町や深川や浅草などの被害は甚大であり、多くの家屋が倒壊しました。また火災が発生したことにより被害がさらに拡大しました。調査によって江戸の町の死者は約4700人とされていますが周辺地域を合わせると1万人にのぼると考えられます。また東北地方から東海地方にかけて広い範囲で震度4を超える揺れが発生した地域もあります。次の図は瓦版(読売)に掲載された安政の大地震絵図です。肥大側に被害の様子が描かれ、右側に被災者救済場所や各地の被害情況を記載されています。

瓦版(読売)に掲載された安政の大地震絵図
瓦版(読売)に掲載された安政の大地震絵図

 前年の嘉永7年(1854年)にはアメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督が黒船で再来航し日米和親条約が締結されました。これによって国内では開港が攘夷かで意見が対立し幕政の混乱が始まりました。

 第9代藩主徳川斉昭は水戸学をもとに尊王攘夷の考え推し進めましたが、安政江戸地震で小石川の水戸藩藩邸が倒壊し斉昭の重臣の戸田忠太夫、藤田東湖が死亡しています。重臣を失った水戸藩では内部抗争が生じ後に水戸藩を脱藩した浪士たちが安政7年3月3日(1860年3月24日)の「桜田門外の変」を引き起こすことになります。尊王攘夷運動は倒幕運動へとつながっていきます。

 幕末の混乱期に発生した「安政江戸地震」は江戸の人々にとって大きな影響を与えました。幕政が混乱する中で江戸の町は復興し後の明治維新へとつながる歴史の1ページとして刻まれました。

 安政7年3月19日(1860年4月8日)、黒船来航以来で国内が混乱する中で「江戸城火災」「桜田門外の変」など災異(凶事)が続いたため第121代天皇の孝明天皇の強い意向で元号が万延に改元が行われました。このときの江戸幕府の将軍は第14代の徳川家茂です。

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2024年10月 1日 (火)

方広寺鐘銘事件から大阪の陣へ(1614年10月1日)

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 豊臣秀吉の死後に豊臣政権内部政争が発端となって慶長5年(1600年)9月15日に「関ヶ原の戦い」が起こりました。徳川家康率いる東軍が石田三成率いる西軍に勝利すると、慶長8年(1603年)2月12日、家康は征夷大将軍に就任すると江戸幕府を開き徳川家による政権作りを開始しました。

関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)
関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)(関ケ原町歴史民俗資料館)

 家康は徳川政権を長期的に安定したものとするため慶長10年(1605年)には将軍職を辞職し嫡男の徳川秀忠に家督を譲りました。征夷大将軍と執政は徳川家が世襲することを示したのです。このような状況の中で家康は別格的存在だった豊臣家が徳川政権の障壁になると考えました。やがて豊臣家を徳川家に服属させることを考えるようになったと伝えられています。

徳川家康と豊臣秀頼
徳川家康と豊臣秀頼

 同年5月に家康は高台院を通じて秀頼生母の淀殿に秀頼が徳川家に臣下の礼を取るように要請しました。これに対して淀殿は会見を拒否しましたが家康は平和裏に対応しました。慶長16年(1611年)3月、家康は後水尾天皇即位で上洛すると秀頼と二条城での会見を実現しました。

 その後、豊臣家の親戚筋や豊臣家恩顧の大名が亡くなると徳川家を疎遠にしていた豊臣家は孤立するようになりました。豊臣家は徳川家の幕藩体制の外にあり幕府に縛られる必要はないと考えた淀殿をはじめとする豊臣方は幕府に無断で朝廷から官位を賜る要請をしたり、大阪城に兵糧を運び込んだり、浪人を雇ったりしました。このような豊臣家の動きに対して家康は穏便な対応を続けましたが同時に戦の準備を進め大阪城を攻撃するための大筒や武器を確保し始めました。豊臣家が徳川家に服属しない限り両家の関係の解決の見通しは立ちませんでした。

 慶長15年(1610年)8月22日より秀吉の方広寺大仏の再建が始まりました。この再建工事は徳川家が主導し豊臣家が費用を負担することになっていました。大仏殿が完成したのは慶長17年(1612年)と伝えられています。

2代目方広寺大仏殿(東山名所図会 京都府立京都学歴彩館 デジタルアーカイブ)
方広寺大仏殿(東山名所図会 京都府立京都学歴彩館 デジタルアーカイブ)

 方広寺は豊臣家の建物で朝儀により創立された寺院ではないため正式な寺院とするための手続きが進められました。家康は方広寺再建落慶供養に出席するため上洛するつもりでした。秀頼の出席も許されていましたから両名が揃う可能性がありました。

 慶長19年(1614年)に梵鐘が完成すると片桐且元は南禅寺の文英清韓に鐘銘文を書かせました。その鐘銘文の中にあった言葉が「国家安康」「君臣豊楽」の言葉でした。この鐘銘文に異議を唱えたのが家康の側近の南光坊天海でした。さらに徳川家が派遣した大工頭の中井正清の名が棟札に記されていないことに家康は不満を持ちました。同年7月26日、家康は鐘銘文が不快という理由から大仏殿供養の延期を決めました。

方広寺鐘銘 「国家安康」「君臣豊楽」
方広寺鐘銘 「国家安康」「君臣豊楽」

 同年8月、家康は林羅山などに梵鐘の銘文を解読させました。羅山は「国家安康」が家康の名を「家」と「康」に分断し家康を呪詛しており、一方の「君臣豊楽」には豊臣家を君主として楽しむという意味が隠されていると指摘しました。作者の清韓は家康に対する祝意と諱をかくし題として織り込んだものであり家康を呪詛する意図はないと弁明しました。いずれにしろ大仏殿供養は延期され方広寺鐘銘事件に発展しました。

 豊臣家は鐘銘文を弁明をさせるため片桐且元を駿府に派遣しましたが家康との会見は実現しませんでした。その後、豊臣家は大野治長の母の大蔵卿局を駿府へ派遣し家康と面会しています。同年9月6日、家康は以心崇伝と本多正純を通じて大蔵卿局と且元に対し豊臣方の徳川家に対しての不信に問題があり両家の融和を示す方策を講じ江戸に弁明に赴くよう要求しました。

 大坂へ戻った且元は次の3案のうちひとつを行うよう進言しました。

 ・秀頼を江戸に参勤

 ・淀殿を人質として江戸に置く

 ・秀頼が国替えに応じ大坂城退去

 この3案はどれも豊臣家にとって受け入れがたいものでした。且元は豊臣家と徳川家の両家から知行を得ていることもあり豊臣家重臣から家康との内通を疑われるようになりました。同年9月23日、織田信雄から且元暗殺計画を聞いた且元は屋敷で防備を固めました。秀頼は問題解決のため且元に武装解除を命じましたが且元は応じませんでした。その結果、同年9月27日に秀頼は且元に寺で隠居するよう命じました。

 同年10月1日、且元は高野山に入るとして300程の雑兵を率いて大阪城を出ましたが、且元が向かったのは高野山ではなく茨木城でした。同日、家康のもとに且元暗殺計画の報が届き家康はこれに激怒し大阪に出兵を命じました。豊臣家は且元の罷免は家康に敵対するものではないと弁明しましたが家康は受け入れませんでした。こうして徳川家と豊臣家の戦は避けることができなくなり「大坂の陣」が開戦することになったのです。

 

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