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2024年9月 3日 (火)

日仏修好通商条約の調印(1858年9月3日)

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 マシュー・ペリー提督が率いる黒船来航で安政元年(1854)年に日米和親条約が締結されると、幕府はイギリス、ロシア、オランダと和親条約を締結しましたがフランスとは和親条約を結びませんでした。

 当時、フランス皇帝ナポレオン3世は日本に開国を要請するための和親条約締結の交渉の全権をド=ブルブロン駐中国公使に与えました。この頃、フランスはイギリスとともにクリミア戦争に参戦しておりロシアに対抗するため両国の関係強化を重要視していました。フランスは日本との交渉はイギリスと協調して行うようド=ブルブロン公使に命じました。

 ド=ブルブロン公使は過去の外交関係から日本がイギリスに対して良い印象を持っていないことやフランスの軍事力がアヘン戦争に勝利し東アジアで大きな利権を得たイギリスに劣っていることを日本に知られることを危惧しました。またイギリスも多くの軍艦をクリミア戦争に派遣していました。ジェームズ・スターリング司令が率いるイギリス東インド・中国艦隊も南下してくるロシア軍艦に対応するため中国沿岸から離れることができない状態でした。ド=ブルブロン公使はイギリスが日本との和親条約を結ぶことができる状況ではないためフランスも交渉を延期せざるを得ないという書簡を同年8月8日に本国に送っています。フランス本国はド=ブルブロン公使に日本との交渉を進めるように伝えましたがド=ブルブロン公使は動きませんでした。

 ところがロシアのエフィム・プチャーチンが日露和親条約交渉のため艦隊を率いて長崎に入港していることを知ったスターリング司令はロシア軍艦を拿捕するため長崎に向かいました。スターリングの艦隊が長崎に入港したときにはプチャーチンの艦隊は既に出港していませんでした。スターリングは長崎奉行にイギリスとロシアは交戦中でロシアには領土拡大の野心があること伝え幕府に中立を求めました。幕府からイギリスとの外交交渉の許可を得た忠徳は目付役の永井尚志とともにスターリングと会見しました。スターリングは外交交渉の権限は有していませんでしたが、和親条約を締結するとと日本で補給が可能になりロシアとの交戦に有利になると考え、同年8月23日に独自の判断で日英和親条約の調印を行いました。イギリス議会もこれを追認しています。結果としてイギリスと協調して日本の交渉を行おうとしていたフランスは日本との和親条約の締結に出遅れてしまったのです。

【参考】日英和親条約の調印(1854年8月23日)

 こうしてアメリカ、イギリス、ロシア、オランダは日本と和親条約を結びましたが、フランスは機会を失い最後まで日本との和親条約を結ぶことはありませんでした。

 ・日米和親条約 嘉永7年(1854年)3月3日

 ・日英和親条約 嘉永7年(1854年)8月23日

 ・日露和親条約 安政元年(1855年)12月21日

 ・日蘭和親条約 安政2年(1856年)12月23日

 実際には幕府は列強との和親条約の締結には積極的になっており安政元年(1855年)5月にフランスに和親条約の締結を打診しています。クリミア戦争で東アジア近海でロシア艦隊の対応をしていたフランス海軍コンスタンティヌ号が長崎に入港したとき、長崎奉行が艦長ルイ=マリ=フランソワ・タルディ=ド=モントラヴェル海軍大佐に長崎と箱館の2港を開港する条約の調印を提案しています。同大佐は条約締結の権限を有していないことを理由に調印を断っています。

 また安政2年(1855年)6月から7月にかけてフランス海軍のシビィル号、ヴィルジニ号、コンスタンチヌ号が多くの病人が出たため立て続けに緊急に箱館に寄港しました。和親条約を結んでいないフランスに対して箱館は海港されていませんでしたが箱館奉行の竹内保徳は人道的な見地に立ち病人たちの治療のための上陸と養生を独断で許可しています。これが日仏親善のきっかけにもなりました。

 安政5年(1858年)6月19日に日米修好通商条約が締結されると、幕府は列強とも通商条約を締結しました。

 ・日米修好通商条約 安政5年(1858年)6月19日

 ・日蘭修好通商条約 安政5年(1858年)7月10日

 ・日露修好通商条約 安政5年(1858年)7月11日

 ・日英修好通商条約 安政5年(1858年)7月18日

 フランスも日仏修好通商条約を結ぶべくジャン・バティスト・ルイ・グロを全権大使としギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールとシャルル・ド・モンブランを日本に派遣しました。幕府は水野忠徳、永井尚志、井上清直、堀利煕、岩瀬忠震、野々山鉦蔵の6名が交渉にあたり安政5年(1858年)9月3日に日仏修好通商条約に調印しました。フランス語の通訳はメルメ・カション神父が務めた。

日仏修好通商条約の調印
日仏修好通商条約の調印

 1859年、ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクールが後に初代駐日フランス公使となりました。同年、江戸三田の西海寺にフランス領事館が開設されシャルル・ド・モンブランが在フランス日本総領事となりました。

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