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2024年9月24日 (火)

西郷隆盛死す|西南戦争が終結(1877年9月24日)

 明治2年5月18日( 1869年6月27日)、箱館戦争が終結し鳥羽・伏見の戦いで始まった戊辰戦争に終止符が打たれると日本は新しい時代を迎えました。明治政府は政治の改革を進めましたが、これは武士など既得権益や長らく続いた秩序を破壊するものでした。新政府軍も元はと言えば江戸時代から続く諸藩の藩士らによって組織されたものでした。戊辰戦争が終結すればもとの立場に戻ります。

 新政府は明治6年(1873年)に徴兵令を導入し戊辰戦争とは異なる軍隊を編成しました。また四民平等政策を進め大名・武士を廃止して華族・士族としました。このような状況の中で一部の士族の間で不平不満が募り、征韓論の対立による明治六年政変で西郷隆盛、江藤新平、板垣退助らが下野すと士族の不満は高まり、佐賀の乱をはじめとする明治政府に対する不平士族による士族反乱が起きるようになりました。

 下野した西郷隆盛は鹿児島に戻ると多くの時間を自宅で過ごし猟をしたり温泉で休養したりしていました。やがて西郷隆盛を慕う血気盛んな若者たちが鹿児島に集まりました。明治7年(1874年)、県令の大山綱良と西郷隆盛は彼らを指導する「私学校」を設立しました。この「私学校」は軍事色の強い学校となりましたが勢力を伸ばし関係者の多くが鹿児島県の要職を務めるようになりました。西郷隆盛は私学校で自ら教えることはありませんでした隆盛の考えとは関係なく反政府的な思想をもつ組織となりました。やがて鹿児島県そのものが反政府の独立国のようになりましたこの事態を憂慮した西郷隆盛の盟友の大久保利通は西郷隆盛と私学校の動向を調査させるため薩摩出身の警察官23名を帰省を理由に鹿児島県に派遣しました。

西郷隆盛
西郷隆盛

 明治10年(1876年)1月29日、政府は鹿児島県の陸軍省砲兵属廠の火薬庫からスナイドル銃の弾薬を大阪に移動するため赤龍丸を派遣して搬出を行いました。当時、鹿児島県は政府の主力装備のスナイドル銃の弾薬の製造を独占していたため製造設備を含めて大阪に移動しようとしたのです。「私学校」はこれに反発して火薬庫を襲い弾薬を奪いました。この「私学校」の動きに対して隆盛は政府に私学校に対する厳しい処分をする口実を与えることになったと嘆きました。

 また「私学校」は大久保利通が送り込んだ警察官を捕らえて拷問しました。隆盛を刺殺しにきたという白状を得た「私学校」は政府に対して挙兵するべきという結論に達しました。隆盛は「私学校」に対して何も述べることはないお前たちの思うようにするようにと「この体はお前さあたちに差し上げもんそ」と答えました。明治10年(1877年)2月初めに挙兵が決まりました。

 挙兵した薩摩軍に対して明治政府は有栖川宮熾仁親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)として副司令官に山縣有朋陸軍中将と川村純義海軍中将を任命しました。明治政府は十分な武器を備えて大軍を編成し、電信を駆使して迅速な情報交換を行いました。

 薩摩軍は「田丸坂の戦い」などで奮闘しましが近代的な明治政府軍には多勢に無勢 であり熊本城も落城させることもできませんでした。薩摩軍は敗走し鹿児島へ戻りましたが、5万人以上の明治政府軍に囲まれました。

田原坂の戦い(官軍は左、薩摩軍は右)鹿児島新畫之内 熊本縣田原坂撃戦之図」梅堂国政画
田原坂の戦い(官軍は左、薩摩軍は右)
鹿児島新畫之内 熊本縣田原坂撃戦之図」梅堂国政画

 明治11年(1877年)9月24日午前4時頃、明治政府軍は総攻撃を開始しました。西郷隆盛は40名の従者とともに戦場を駆け抜けましたが、やがて被弾すると別府晋介に「晋さん、もうここでよか」と告げました。同日午前7時頃、晋介は涙ながらに西郷隆盛を介錯しました。幕末に活躍し明治維新に大きな貢献を果たした古今無双の英雄である西郷隆盛の死により西南戦争は終結したのです。

西郷隆盛と従者(フランス「ル・モンド紙」)
西郷隆盛と従者(フランス「ル・モンド紙」)

 隆盛は挙兵後の明治10年(1877年)2月25日に官位を剥奪されていました。戦死後、日本の新しい時代の幕開けに大きな貢献をした隆盛は賊軍の将とされました。明治天皇は隆盛の戦死の報告を受けたときに「西郷を殺せとは言わなかった」と嘆いたと伝えられています。明治天皇は隆盛を高く評価し気に入っていたのです。隆盛の部下だった黒田清隆は隆盛の名誉回復のため尽力しました。隆盛は明治22年(1889年)2月11日の大日本帝国憲法発布による大赦で正三位を追贈されています。黒田清隆の尽力の背景に明治天皇の意向と支援がありました。

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