榎本釜次郎らがオランダ留学のため長崎出航(1862年9月11日)
文久元年(1861年)3月、異国船に匹敵する軍艦の必要性を認識した江戸幕府はアメリカ駐日行使タウンゼント・ハリスに蒸気軍艦3隻の発注を打診し、榎本釜次郎、内田正雄、澤太郎左衛門、赤松則良、田口俊平、津田真道、西周にアメリカへ留学させることにしました。しかしながら、ハリスは米国の南北戦争の拡大を理由に幕府の申し入れを断りました。そこで幕府は文久2年(1862年)3月にオランダに蒸気船1隻を発注し、釜次郎らの留学先もオランダに変更しました。
オランダ留学に選ばれたのは次の15名で次世代の幕府海軍を支える期待の人物たちでした。
- 内田恒次郎(軍艦操練所軍艦乗組 船具運用、砲術専攻)
- 榎本釜次郎(軍艦操練所軍艦乗組 船具運用、砲術、機関専攻)
- 澤太郎左衛門(軍艦操練所軍艦奉行支配 船具運用、砲術、鉄砲火薬専攻)
- 赤松大三郎(外国奉行支配役並出役 船具運用、砲術、造船専攻)
- 田口俊平(外国奉行支配調役並出役 船具、砲術、測量専攻)
- 津田真一郎(洋書調所教授方出役 国際法、財政学、統計学専攻)
- 西周助(洋書調所教授方出役 国際法、財政学、統計学専攻)
- 古川庄八(水夫頭習得)
- 山下岩吉(上等水夫習得)
- 中島兼吉(大砲鋳物師習得)
- 大野弥三郎(測量機械師習得)
- 上田寅吉(船大工 船大工習得)
- 林研海(医師 医学専攻)
- 伊東玄伯(医師 医学専攻)
- 大川喜太郎(鍛工習得)
同年6月18日、15名の留学生は咸臨丸で長崎に向けて品川沖を出発しました。しかし、恒次郎、釜次郎、太郎左衛門、大三郎が麻疹にかかったため下田に立ち寄り療養することになりました。一行が長崎に到着したのは同年8月23日です。オランダ行きの準備を整えた一行は同年9月11日にオランダの商船「カリップス号」で長崎を出港しました。「カリップス号」が最初に向かったのは当時のオランダ領だったバタヴィア
(インドネシア首都ジャカルタ)です。ところがジャワ島付近で暴風雨に遭い「カリップス号」が座礁してしまいます。一行はオランダ人の船員や商人らとともにボートで漂流していたところをマレー船に発見されレパル島に運ばれました。その後、ジャワ政府から連絡を受けたオランダ領事館に救出され無事にバタヴィアに到着しました。一行はオランダ客船「テルナーテ号」に乗り換え、同年11月2日にバタヴィアを出港しオランダのロッテルダムに向かいました。
バタヴィアからロッテルダムまでの行程は釜次郎が日誌をつけています。「テルナーテ号」はインド洋を西へ向かいアフリカ南端の喜望峰(ケープ・オブ・グッド・ホープ)を回り大西洋を北上しました。文久3年2月8日、、南大西洋に浮かぶ孤島のセントヘレナ島に上陸し島流しとなったナポレオンの寓居跡などを見学しました。セントヘレナ島からロッテルダムに向けて出向し68日間をかけて同年4月18日に到着しました。長崎出向からは250日にもなる長旅となりました。
ロッテルダムに到着すると、ちょんまげに羽織袴で刀を差した留学生たちをめずらしがって多数のオランダ人が見物に来ました。釜次郎らを出迎えたのは海軍伝習所で教官を務めたヴィレム・ホイセン・ファン・カッテンディーケやヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトでした。伝習所で釜次郎はカッテンディーケに高く評価されていました。釜次郎はポンペの紹介でハーグで下宿することになり、ここで船舶運用術、砲術、蒸気機関学、化学、国際法などを学びました。そして欧州を見学して回りました。この経験が後の釜次郎の達観した世界観と優れた外交力の礎になったに違いありません。
江戸幕府がオランダに発注した軍艦は釜次郎の発案をもとに「開陽丸」と名付けられ慶応2年(1866年)7月17日に竣工しました。
留学生一行は同年10月25日に開陽丸(艦長はオランダ海軍大尉ジュール・アーサー・エミール・ディノー)はオランダのフリシンゲン港を出向、ブラジルのリオデジャネイロから喜望峰を周ってインド洋を東に進みオランダ領東インドのアンボイナを経由して慶応3年(1867年)3月26日に横浜港に帰着しました。開陽丸と留学生たちは軍艦奉行の勝海舟らに出迎えらました。同年5月10日、釜次郎は幕府から軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)に任じられ同年7月8日には軍艦頭並となりました。この年、オランダ留学生の林研海の妹で奥医師の林洞海の長女多津(たつ)と結婚しました。
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