昭和天皇とマッカーサ元帥の第1回会見(1945年9月27日)
昭和20年(1945年)9月27日、第二次世界大戦後の連合国軍占領下の日本において当時44歳の昭和天皇と当時65歳の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)総司令官のダグラス・マッカーサー元帥の第1回の会見が駐日アメリカ大使館で行われました。第1回会見の通訳は外交官の真珠湾攻撃の通告を不慣れなタイプライターで作成し攻撃開始より遅れて提出した経緯をもつ奥村勝蔵氏が担当しました。昭和天皇とマッカーサー会見昭和26年(1951年)まで11回にわたり行われました。
昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問したことは第1回会見の2日後の9月29日に毎日新聞、読売新聞、朝日新聞に掲載されました。その記事には昭和天皇とマッカーサ元帥が並んで写っている写真と前もって行われた昭和天皇への米国人記者会見の内容が掲載されていました。
政府は写真の掲載と米国人記者の会見の様子が皇室の尊厳を損ない公安に害があるとして発禁処分としましたが、朝日新聞の抗議によりGHQは政府に対して発禁処分の撤回を命じました。この記事には昭和天皇とマッカーサ元帥の第1回会見の内容は掲載されておらず、GHQが写真の掲載と米国人記者会見の内容を報道させたものと考えられています。
マッカーサ元帥との会見における昭和天皇の言葉は「マッカーサー回想記」の第5部に掲載されています。マッカーサー元帥の回想によれば昭和天皇はマッカーサー元帥を訪れ「私は国民が戦争遂行にあたって行った全ての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした」と話をされ、これを聞いたマッカーサー元帥は「私は大きい感動にゆさぶられた。死をともなうほどの責任、それも私の知り尽くしている諸事実に照らして明らかに天皇に帰すべきではない責任を引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は私の骨の随までもゆり動かした」と記しています。
昭和64年(1989年)1月7日、昭和天皇が崩御すると日本の新聞各社は昭和天皇と「マッカーサー回想記」に記されたマッカーサ元帥の第1回会見における天皇の発言は事実と報じました。
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