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2024年9月23日 (月)

村橋久成と中川清兵衛|開拓使麦酒醸造所が開業(1876年9月23日)

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 戊辰戦争の最後の戦い「箱館戦争」が終結すると明治政府は明治2年(1869年)7月8日に北方開拓のため「開拓使」を設置しました 

 初代開拓使長官には戊辰戦争で最新式の兵器で活躍した佐賀藩の藩主の鍋島直正が明治2年(1869年)7月13日に就任しました。しかし直正は8月16日に大納言に転任したため蝦夷地へ赴任することなく辞任しました。

 続いて開拓使長官長官に就任したのは「八月十八日の政変」で七卿落ちし長州に逃れた尊王攘夷派公卿の東久世通禧です。通禧は同年9月21日に開拓使吏員、農工民約200人を率いてイギリス雇船テールス号で品川を出発し9月25日に箱館に着任しました。当時の北海道の中心地は箱館府が置かれていた箱館でしたが北海道の南端に位置していため開拓使本庁は北海道の中央に設置することになり、「北海道の父」と呼ばれる佐賀藩士の島義勇首席判官は銭函(現小樽市銭函)に開拓使仮役所を開設し開拓使本庁の建設を始めました。しかし、予算を使う過ぎたため長官と意見が対立し解任されました。その後は岩村通俊判官が継ぎ明治4年(1871年)5月に札幌に開拓使本庁が設置されました。

 明治3年(1870年)、政府はロシアの侵出が進む樺太の状況を鑑みて樺太開拓使を設置しました。東京で樺太専任の開拓次官に就任したのが黒田清隆です。明治4年(1871年)10月の東久世長官の辞職に伴い清孝が開拓使の長となり明治7年(1874年)に開拓使長官となりました。清孝は北海道に赴任せず東京で指揮を執りました。黒田は御雇外国人を招き北海道開拓の政策の助言を得たり技術者の育成を行わせました。

 当初から樺太を守るよりも北海道の開拓に力を入れるべきと考えていた清孝は樺太を手放す方針を取るようになりました。政府は明治7(1874年)3月に樺太をロシア領とし得撫島以北諸島を日本が領有する方針を決め明治8年(1875年)5月にロシアと樺太・千島交換条約を締結しました。この条約締結に特命全権大使として赴いたのが榎本武揚です。

黒田清隆と榎本武揚
黒田清隆と榎本武揚

 清孝は北海道の測量を行い道路や鉄道の敷設など様々な開拓事業を進めましたが広大な北海道全域を網羅することは不可能であることから産業の育成に力を入れることにしました。明治9年(1876年)に「札幌農学校」と「開拓使麦酒醸造所」を設立、その他にも洋式の農場や、製糸、製糖、製麻、葡萄酒醸造、味噌醤油醸造、缶詰製造などの工場を設立しました。

 北海道の産業のひとつとしてビール製造が選ばれたのはビールの原料となる大麦とホップを生産できること、気候がビールの醸造に適していること、醸造に必要な冷却用の氷が入手しやすいことなど地の利があるからでした。「開拓使麦酒醸造所」が設立されるとドイツでビール醸造技術を学んだ職人が赴任し本格的なビールの製造が始まりました。

 この「開拓使麦酒醸造所」の事業に大きな貢献をしたのが薩摩藩士の村橋久成とビール職人の中川清兵衛です。

村橋久成と中川清兵衛
村橋久成(左)と中川清兵衛(右)

 村橋久成は薩摩藩の島津家の一門である加治木島津家の分家の出身です。幕末の元治2年(1865年)に藩命でイギリスに留学することになりました。同年3月にグラバー商会の船で密航でイギリスへ旅立ちました。イギリスで西洋の発展を目にした久成はショックを受けて精神障害となりわずか1年で帰国しました。

 慶応4年(1868年)7月に加治木大砲隊長として戊辰戦争の東北戦争に従軍しました。会津藩の降伏後は東京に戻りましたが、明治2年(1869年)3月に黒田清隆や東郷平八郎らと薩摩藩の軍艦「春日」で箱館戦争に従軍するため青森に向かいました。新政府軍の艦隊はその途上で岩手県の宮古湾で箱館政権の軍艦の攻撃を受けています。青森到着後、旧幕軍征討青森口鎮撫総督府軍監に任じられました。箱館戦争において清孝の命令で会津遊撃隊長の諏訪常吉の見舞として箱館病院を訪れ高松凌雲に榎本武揚に降伏勧告の書簡を送っています。

 戊辰戦争が終結後は鹿児島に帰郷しましたが明治4年(1871年)に開拓使東京出張所に出仕し農業の技術改革に携わりました。明治6年(1873年)12月、北海道の七重開墾場の測量と畑の区割りを行い、明治7年(1874年)には屯田兵の入植地となる琴似兵村の区割りを行いました。明治8年(1875年)4月に七重開墾場と琴似兵村の仕事を終えると東京に戻り開拓使が計画を進めていた「開拓使麦酒醸造所」の建設責任者に任命されました。

 中川清兵衛は越後の商家の出身で家督を継ぐよう育てられましたが17歳のときに横浜へ出てドイツ商館で働くようになりました。慶応元年(1865年)4月にイギリスに密航し明治5年(1872年)にドイツに移動しました。ドイツで駐独公使の青木周蔵に出会い、青木の紹介で明治6年(1873年)にベルリンのビール製販会社ベルリンビール醸造会社ティボリ工場で働くことになりました。この工場でビール醸造を修業した清兵衛に対しベルリンビール醸造会社は修業証書を与えました。清兵衛は明治8年(1875年)に日本へ帰国しました。ほどなく久成によってビール醸造の職人として「開拓使麦酒醸造所」に雇われました。

 これで「開拓使麦酒醸造所」の役者がそろい明治9年(1876年)9月23日に開業しました。当時、外国人が設立したビール醸造所や小規模なビール醸造所はありましたが、大がかりな本格的な設備を持つ日本人の手だけによるビール醸造所が生まれたのです。しかしながら当初は発酵がうまくいかずビール醸造は失敗を繰り返しました。それでも久成と清兵衛は努力を重ね明治10年(1877年)5月にビール醸造に成功しました。製造されたビールの味に関係者は満足し明治天皇にも献上されました。同年9月に「札幌冷製麦酒」として販売が開始されると、国産の本格的なドイツビールとして大人気となりました。

 ビールの製造も販売も順調だった「開拓使麦酒醸造所」ですが、開拓使の10年計画の満期が訪れたことによって転機を迎えました。清孝は開拓使の事業を継続させるため部下の官吏に官有の施設、設備を開拓使官吏がが創設した北海社と薩摩出身の五代友厚らの関西貿易社に安値で払い下げることにしました。あまりにも安価な売却に大隈重信が反対しましたが、高値で売れる見込みもなく払い下げは内閣で決定されました。ところがこの払い下げが新聞社にリークされ、清孝が薩摩出身の友厚に便宜を図ったなどと批判され開拓使官有物払下げ事件と発展しました。これによって払い下げは中止となり明治15年(1882年)、黒田は開拓長官を辞任しました。開拓使も同年2月に廃止されました。

 その結果、「開拓使麦酒醸造所」は農商務省所管を経て北海道庁に移管されました。明治19年(1886)年に大倉組商会(現大成建設)に払下げられ、明治20(1887)年に渋沢栄一によって「札幌麦酒」が設立されました。その後は「大日本麦酒札幌工場」、「日本ビール札幌工場」を経て「サッポロビール札幌工場」となりました。

 

 開拓使は数多くの事業を手がけましたが今日まで現存し続しているのは「サッポロビール」と札幌農学校の後身となった「北海道大学」のみです。次の写真は2021年にサッポロビールとファミリーマートが限定販売した「開拓使麦種仕立て」です。「LAGER」と表記するべきところを「LAGAR」と誤記されていることが発覚したため販売中止とすることになりましたが、多くの消費者の支持と支援で販売することになったという経緯があります。この写真の「開拓使麦種仕立て」の商品名の左下に「LAGAR」の語記を確認することができます。

サッポロビール開拓使麦種仕立て
サッポロビール開拓使麦種仕立て

 さて、開拓使の払い下げにより村橋久成と中川清兵衛の人生も大きく変わりました。

 中川清兵衛は「開拓使麦酒醸造所」の成功によりは日本初の国産ビール醸造の功労者として有名人となりました。開拓使からの給与も高く、しばしば自宅に著名人を招待しビール園を開くなどしました。開拓使の廃止後はビール醸造の仕事は継続せずに小樽へ移住し小樽運河近くに旅館を開業し繁盛させました。利尻島の開発が厳しい状況にあることを知ると資財を低金利で投資し援助をしましたが、予想以上に開発費が膨大し元金も失ってしまいました。明治31年(1898年)に旅館を売却し横浜へ移住した。大正5年(1916年)に享年69歳で逝去、末期の水(死に水)は本人が希望していたサッポロビールでした。

 村橋久成は明治11年(1878年)に札幌本庁の民事局副長となります。明治13年(1880年)に東京出張所勧業試験場長に任ぜられるも「開拓使麦酒醸造所」が安価で売却する計画を知ると明治14年(1881年)に突然開拓使を辞職しました。その後、北海道で牧畜会社の社長を務めましたが何か思いがあったのか托鉢の修行僧となり家族も捨てて放浪の旅に出て行方不明となりますた。明治25年(1892年)9月25日に神戸市葺合村六軒道の路上で何も持たずに倒れているところを警察官に発見されました。警察官が名を訪ねると偽名を答えましたが、観念したのか出身地と自身と家族の親戚の名を告げました。病院に搬送されましたが28日に享年50歳で逝去しました。死因は肺結核と心臓弁膜症と伝えられています。神戸市は鹿児島市に村橋久成の名を照会したもの該当する人物なしという返事しか得られませんでした。10月12日に神戸又新日報、10月18日には東京の新聞「日本」が村橋久成の死を伝えたことにより黒田清隆の知るところとなりました。清孝は神戸で仮埋葬されていた久成の遺体を引き取り10月23日に東京で葬儀を行いました。戊辰戦争から開拓使までともに行動した久成を手厚く葬ったそうです。

 黒田清隆は明治20年(1887年)に第1次伊藤内閣で農商務大臣、明治21年(1888年)4月に第2代内閣総理大臣に就任しています。榎本武揚は第1次伊藤内閣で逓信大臣、黒田内閣では逓信大臣に就任しました。その後は文部大臣、外務大臣、農商務大臣を歴任しました。

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