異国橋(栄国橋)|土方歳三もうひとつの最期の地
函館市内を走る市電の十字街の電停そばにセブンイレブンがあります。その駐車場に「異国橋」の案内版があります。
「異国橋」は享和元年(1801年)に「栄国橋」として建造されました。「栄国橋」のあった場所は案内版から電車通りに沿ってやや函館駅方面に戻った函館西警察署十字街交番(函館市豊川町7-31)あたりにありました。市電通りに交差する銀座通りにかつてあった掘割に架けられていたのが「栄国橋」です。下記の地図は函館市中央図書館所蔵の箱館全図 万延元年の一部を切り出したものですが中心に「異国橋」を確認することができます。
次はGoogleストリートビューで市電通りと銀座通りの交差点から見えるセブンイレブン(左端)と交番(右端)で「異国橋」があったあたりです。このあたりは港や歓楽街からも近く古くから商業が盛んでした。「栄国橋」は文字通り国が栄えるに由来し名付けられました。また「永国橋」とも呼ばれたようです。
安政元年(1854年)の日米和親条約により箱館が開港すると箱館港の築島が外国人居留地に指定され外国人が多く居住するようになり異国情緒漂う地になったことから「異国橋」と呼ばれるようになりました。
市電の通りを「函館どつく」の方に向かうと新撰組屯所跡や土方歳三が宿にしていた商家の佐野専左衛門方の万屋「丁サ」の跡地を訪れることができます。「函館どつく」はかつて新撰組が守備をした「弁天台場」があったところです。土方歳三は「丁サ」から五稜郭まで約6 kmを馬で通ったそうです。
土方歳三最期の地はよくわかっていませんが、当時の記録から孤立した弁天台場を救うために出撃して「一本木関門」(函館市若松町34-1)で新政府軍と対峙しここで銃撃を受け絶命したとされます。他の記録では「異国橋」が土方歳三の最期の地と記したものもあります。
なおセブンイレブンの「異国橋」の案内板の裏側に坂本龍馬像がありましたが青柳町に移転しています。
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