日英和親条約の調印(1854年8月23日)
18世紀の後半、イギリスは清国から茶、陶磁器、絹など大量に輸入していました。一方、清はイギリスから輸入するものがほとんどありませんでした。このためイギリスと清の交易はイギリスの赤字貿易となっていました。イギリスは赤字貿易を相殺するため違法ながら中国で習慣化していたアヘン吸入に目をつけアヘンの輸出を考えるようになりました。
19世紀初めイギリスは清国にインドで製造したアヘンの輸出を始めました。清はアヘンの貿易を禁止していましたが中国のアヘン商人が役人を買収し密輸を行いました。アヘン貿易が拡大し健康被害が社会問題になると清はアヘン貿易を全面的に禁止しイギリスのアヘンを没収しました。これをきっかけとしてイギリスと清の関係は悪化し、アヘンの輸出で巨額な利益を得ていたイギリスは貿易を再開させるため武力行使を行いました。1840年、イギリスは清に宣戦布告しアヘン戦争が勃発しました。清はイギリス軍隊の武力行使に太刀打ちできず敗戦しました。イギリスは清に南京条約を結ばせ多額の賠償金を支払せるとともに香港を割譲するなど中国大陸で大きな利権を獲得しました。
イギリスのアヘン戦争の勝利は日本にも伝わりました。江戸幕府は大国の清が敗れたことに衝撃を受けました。イギリスの東アジア侵出という意味においては日本への侵攻が懸念されるようになりました。しかしながら当のイギリスは中国大陸で巨大な利権を得たため日本への侵攻にあまり関心がありませんでした。アメリカ合衆国がマシュー・ペリー提督を日本に派遣することも知っていましたが特に妨害することもなく日本に対しても行動を起こすことはありませんでした。黒船来航と同時期にクリミア戦争が勃発し、イギリスはロシアとの戦いに注力しました。
【参考】黒船来航(1853年7月8日旧暦6月3日)
ところがロシアのエフィム・プチャーチンが日露和親条約交渉のため艦隊を率いて長崎に入港していることを知ったイギリスの東インド・中国艦隊司令ジェームズ・スターリングはロシア軍艦を拿捕するため長崎に向かいました。スターリング率いる艦隊が長崎に入港したのは嘉永7年閏7月15日でしたが、このときプチャーチンの艦隊は出港していませんでした。
【参考】ロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が長崎来航(1853年7月18日)
スターリングは長崎奉行の水野忠徳にイギリスとロシアが交戦中であること、ロシアが領土拡大の野心があること伝え、幕府に対して中立を求めました。幕府からイギリスとの外交交渉の許可を得た忠徳は目付役の永井尚志とともにスターリングと会見し同年8月23日に日英和親条約に調印しました。
スターリングは外交交渉の権限は有していませんでしたが、条約に調印すると日本で補給が可能になりロシアとの交戦に有益になることから独自の判断で調印を行いました。イギリス政府もこれを追認しました。この条約で幕府はイギリスに対して長崎と箱館を開港と薪水の供給を認めました。安政5年(1858年)、エルギン伯爵ジェイムズ・ブルースが来日し同年7月18日に、五港開放や貿易とイギリス人の居住を認める日英修好通商条約が調印されました。
【関連記事】
・ロシアのプチャーチン極東艦隊指令官が長崎来航(1853年7月18日)
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