天誅組の変(1863年8月17日)
文久2年(1862年)12月、孝明天皇は将軍徳川家茂に攘夷を勅命しました。幕府は列強に対する開国はやむを得ず攘夷は困難と考えていましたが、家茂は文久3年(1863年 )3月に上洛し公武合体を前提に同年5月10日をもって攘夷を実行すると約束しました。家茂と幕府老中は武力による攘夷は不可能なため外交的な手段で閉港などの緩やかな攘夷を行うことを計画し、諸藩に対して通商条約を見直しする外交交渉を開始するため海防を強化するよう命じました。しかしながら開国派の反対もあり攘夷の計画は進みませんでした。
期日の5月10日、尊皇攘夷派が主流となった長州藩は幕府の攘夷の命令に従うとして馬関海峡(関門海峡)を通過する外国船に砲撃を開始しました。長州藩はこの攘夷を実行するにあたり尊皇攘夷派の公卿で侍従の中山忠光を招きました。忠光は土佐脱藩浪士の吉村虎太郎の協力で京都から長州へ向かいました。朝廷は長州藩の行動を賞賛しましたが、この攘夷は馬関戦争(下関戦争)に発展しまいた。長州藩は列強の軍事力を前に為す術がなく敗戦しました。忠光は京都に戻りましたが侍従から外され謹慎処分となりました。
虎太郎は長州に赴き長州藩に挙兵を要請しました。長州藩は馬関戦争(下関戦争)の敗戦で挙兵は困難でしたが約500人の兵を上洛させることを約束しました。このとき久坂玄瑞や高杉晋作らが虎太郎と会談しています。
攘夷を実行しない幕府に対して尊皇攘夷派の不満は日ごとに高まると、やがて倒幕が画策されるようになりました。急進的な尊皇攘夷派の公家の三条実美は天皇が自ら大和の春日大社に赴き攘夷の成功を祈願する大和行幸を計画しました。これによって天皇による攘夷実行と攘夷を実行しない幕府の責任を追及し倒幕を行うことを企てたのです。8月13日に大和行幸の詔勅が出され、朝廷は長州藩主に上洛を求め尊皇攘夷はの諸藩に軍資金の準備を命じました。虎太郎は攘夷派浪士らと「皇軍御先鋒」を組織して大和行幸の先鋒を務めることにました。大和公人が幕府直轄地のため予め幕府代官を討って大和を平定したうえで天皇を迎えようと考えたのです。8月14日、忠光が虎太郎に呼応して挙兵し40名で大和国に向かいました。
こうして忠光と虎太郎らの尊皇攘夷派の一団は天誅組と称して文久3年(1863年)8月17日)に大和国五條代官所への討ち入りを実行しました。代官の鈴木正信を斬首したうえで代官所を放火し市内の寺を本陣とし五条を天皇直轄地とすることを宣言しました。尊皇攘夷派の動きを察知していた会津藩・薩摩藩は8月18日に三条実美ら急進的な尊攘派公家と背後の長州藩を排除する「八月十八日の政変」を起こしました。大和行幸は中止となり天誅組は挙兵の大義名分を失い幕府から討伐される立場になりました。9月27日にまでに吉村虎太郎をはじめとする多くの隊士が戦死、約40日間で「天誅組の変」は終息しました。忠光は長州に逃れましたが元治元年(1864年)に暗殺されています。
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