第23話「降伏勧告」|明日なき戦いの果てに
箱館総攻撃の翌日5月12日、新政府軍は五稜郭と弁天台場に艦砲射撃を行った。とりわけ甲鉄艦から五稜郭への砲撃で多数の死傷者が出た。箱館政権軍には為す術はなかったが徹底抗戦の構えだった。
新政府軍は五稜郭へは進軍せず黒田清隆は箱館政権に対して寛大な戦後処理をする方針で降伏勧告と和議の準備を始めた。同日、薩摩藩士池田次郎兵衛と村橋直衛が箱館病院に入院していた京都守備で旧知の会津藩士諏訪常吉を訪れ和平交渉の斡旋を依頼した。
重症の常吉は病院長高松凌雲と事務長小野権之丞に託した。凌雲は徳川慶喜の奥医師を務め箱館戦争では敵味方分け隔てなく負傷者の治療にあたっていた。凌雲と権之丞は降伏勧告の手紙を送ったが、14日に武陽と松平太郎の連名で拒否の返事が届いた。このとき武陽はオランダ留学で得た万国海律全書を戦火によって失われるのは痛恨の極みと新政府軍に送った。海律全書を手にした清隆は武陽の愛国心を理解したに違いない。
同日、薩摩藩士田島圭蔵は弁天台場を訪れ武陽との面会を依頼、永井尚志と新撰組の相馬主計と五稜郭に赴いた。圭蔵はかつて函館政権に拿捕された秋田藩の高雄丸の艦長で武陽に釈放された経緯もあり誠意を持って交渉したが武陽が決意を覆すことはなかった。武陽は傷病者を湯の川へ送り徹底抗戦の構えだったが、尚志と主計には密かにそれとわかるように降伏の意向を示したと伝えられている。
弁天台場は新政府軍の攻撃によく持ち堪えたが兵糧が尽き15日に降伏した。同日、新政府軍は中島三郎助が守備する千代ヶ岱陣屋に降伏を勧告、大鳥圭介も五稜郭へ撤退を促したが三郎助は了承しなかった。武陽は松平太郎を派遣し撤退の説得を試みた。軍議では若者達に降伏を主張していた49歳の三郎助は自らは討ち死にを覚悟していた。
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