第24話「千代ヶ岱陣屋陥落と箱館戦争終結」|明日なき戦いの果てに
山田顕義率いる新政府軍は5月16日未明に千代ヶ岱陣屋の総攻撃を開始した。やがて白兵戦となり三郎助は台場の胸壁に登ったところを狙撃され、長男恒太郎と次男英次郎、浦賀奉行の仲間と討ち死にした。他部隊は五稜郭に撤退、徹底抗戦を主張した渋沢成一郎は湯の川へ逃れた。死んでは元も子もない、京都の経験に思いを馳せたのだろうか。
三郎助の戦いが戊辰戦争最後の戦闘である。黒船来航から箱館戦争まで関わった三郎助はラストサムライの1人である。若い頃に造船学を学ぶため浦賀の三郎助の家に下宿した桂小五郎(木戸孝允)は新政府の要人ながら三郎助の死を嘆き悲しんだ。戦後に明治天皇と箱館を訪れたとき陣屋跡付近で感極まって号泣したそうである。孝允は榎本武揚と三郎助の遺族を支援、三男中島與曽八は海軍機関中将となった。
同日午後、薩摩藩士が五稜郭を訪れ弁天台場と千代ヶ岱陣屋の陥落を伝え書簡を届けた。書簡には黒田清隆の計らいで海律全書の礼として酒樽を送ると書いてあり酒樽と肴が届けられた。毒殺を恐れ誰も手をつけない様子を見て星恂太郎が笑いながら樽を割って一杯飲むと諸将も酒を嗜んだ。
武揚は席を外し全責任を取り自決しようとしたが介錯を頼んだ側近の大塚霍之丞が素手で武陽の短刀を鷲掴み阻止した。武陽は我に返り明朝7時に城外に出て降伏することを決断した。17日、武陽と松平太郎は五稜郭を出て酒徳利とスルメを用意して待っていた清隆と面会、降伏条件の交渉後に亀田八幡宮で降伏式を執り行った。
明治2年5月18日、五稜郭は開城し戊辰戦争は箱館の地で終結した。市中には箱館政権兵士の遺体が放置されたままだった。賊軍の遺体を人道的に収容し埋葬したのは侠客の柳川熊吉である。明治政府官吏となっていた田島圭蔵は粛々と遺体収容を進める熊吉を咎めず黙認したという。
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