「星の王子さま」作者サン=テグジュペリが行方不明に(1944年7月31日)
フランスのリヨン出身のアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは「星の王子さま」を著した小説家として有名ですが、1921年にフランス軍の兵役に志願し航空機の整備士として働きました。パイロットになることをめざしましたが経験がないため自費で民間の飛行訓練を受けパイロットの資格を得ました。その後、軍の飛行学校に入学し軍のパイロットの資格を得て空軍の航空連隊に配属されました。
1923年5月にサン=テグジュペリが何度か航空機事故を経験すると、婚約者の家族が危険な仕事に従事し続けることに反対されたため軍を退役しました。パイロットを辞めて別の仕事をすることになりましが同年9月には婚約は解消となりました。この頃から小説を執筆するようになりました。
1926年、サン=テグジュペリは民間の郵便航空会社で定期郵便飛行のパイロットの仕事に就きました。また作家としてデビューし特に自分のパイロットとしての体験をもとにした作品を発表しました。サン=テグジュペリの本は世界中で人気となり、自身も小説を書くパイロットとして有名になりました。
サン=テグジュペリが「星の王子さま」を書くきっかけとなったのは1935年のサハラ砂漠での不時着事故でした。誰もいない砂漠で絶望的な状態でしたが3日間かけて徒歩でカイロにたどり着き事なきを得ました。このときの経験に基づいて執筆したのが「星の王子さま」です。
第二次世界大戦が始まると1939年9月に召集され飛行教官を務めましたが自ら前線への転属を望み偵察機のパイロットとなりました。フランスがドイツと講和するとフランスに戻りましたが1940年12月にアメリカ合衆国に亡命しニューヨークに行きました。
ニューヨークに到着したサン=テグジュペリは連合軍の自由フランス空軍に入隊し1943年6月に北アフリカ戦線の戦場へ戻り偵察機のパイロットとなりました。このとき着陸失敗による事故を起こしたため飛行停止処分を受けました。これは除隊処分と同等なものでしたが何とか復帰することができました。爆撃機のコパイロットを命じられましたが、1944年5月にもとの部隊に戻りロッキードP-38を偵察機に改造したロッキードF-5のパイロットになりました。サン=テグジュペリはパイロットとして作家として人気があり敵軍の多くのパイロットがサン=テグジュペリとは一線を交えたくないと考えていたそうです。
1944年7月31日、フランス内陸部グルノーブルなどの写真を偵察するためロッキードF-5Bで単機で出撃しましたが帰還することなく消息不明となりました。サン=テグジュペリの消息は長らく不明でしたが、1998年9月7日に地中海のマルセイユの南の沖合でトロール船がサン=テグジュペリの銀のブレスレットを発見しました。
この海域には艦船や航空機の残骸が多数沈んでいますが、その中にはロッキードF-5Bもありました。このロッキードF-5Bの存在は1950年代から知られていましたがサン=テグジュペリが偵察に向かった地と離れているため墜落現場とは考えられていませんでした。ブレスレットの発見により、2000年5月24日に発見されていたロッキードF-5Bがサン=テグジュペリの搭乗機であることが判明しました。2003年に残骸が引き揚げられ、機体番号がサン=テグジュペリが搭乗していたロッキードF-5Bと一致していました。サン=テグジュペリ本人の遺体は発見されませんでしたが間違いなく搭乗機であるとされ戦死が認められました。
2008年3月15日のニュース記事にドイツのフォッケウルフ Fw190のパイロットだったホルスト・リッパートが1944年7月31日にマルセイユ沖の地中海上空でP-38を撃墜した証言しました。このとき撃墜機のパイロットが脱出したかどうかは確認できなかったようです。リッパートはサン=テグジュペリのファンでパイロットが彼だと分かっていたら撃墜しなかったと述べています。
このリッパートの撃墜説が有力でしが発見された機体に弾痕はありませんでした。機体は高速で海面に激突しており自爆した可能性も指摘されています。
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