幕末の軍医 松本良順の誕生日(1832年6月16日)
松本良順は幕末から明治時代にかけて活躍した医師です。良順は天保3年(1832年)6月16日、佐倉藩藩医の佐藤泰然の長男として江戸麻生(東京都港区)で生まれました。嘉永元年(1848年)、父が開設していた「佐倉順天堂」で助手を勤め嘉永2年(1849年)に松本良甫の養子となりました。実弟に戊辰戦争で箱館戦争に参戦した林董がいます。
嘉永6年(1853年)の黒船来航により幕府はオランダの協力を得て最初の海軍教育機関「長崎海軍伝習所」を安政2年(1855年)に設立しました。良順はオランダが長崎海軍伝習所に軍医を派遣すると聞き、伝習所初代総監理の永井尚志に掛け合い長崎伝習之御用となり安政4年(1857年)に長崎に赴きました。ここでオランダ軍軍医ヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから西洋医学など蘭学を学びました。
良順は医学校の建設の必要性を考えていたポンぺに賛同し長崎海軍伝習所から医学伝習所を独立させるよう奔走しました。同年11月、ポンペは長崎奉行所の西役所に医学伝習所を開き教授となりました。ここで良順や弟子に医学を教え始めました。多くの医師が集まったことから伝習所が手狭となり、良順は病院を付設した医学校の建設を決意しました。長崎奉行の岡部長常の協力を得て医学校建設の計画は進みましたが、江戸幕府大老の井伊直弼が安政5(1859年)にオランダ人海軍伝習教官の帰国命令を出し長崎海軍伝習所は閉鎖されることになりました。このとき良順は長常と医学伝習所の存続に尽力し、ポンぺは日本に残ることができました。
文久元年(1861年)9月、良順は長崎養生所の頭取となるとポンぺは翌年にオランダに帰国しました。文久2年(1862年)、良順は医学所頭取助を兼任する奥詰医師となりました。良順は江戸に戻り文久3年(1863年)に奥医師に進み、西洋医学所頭取(東京大学医学部)となりました。良順は将軍侍医を務め徳川家茂などの治療も行っています。また新選組の近藤勇と知り合いだったことから新選組隊士の治療も行いました。
徳川家茂は良順の治療の甲斐なく第2次長州征伐中に死去、日本は戊辰戦争の混乱の時期を迎えます。良順は幕府の歩兵頭格医師として陸軍の軍医を務めました。大政奉還後は奥羽列藩同盟軍の軍医となりましたが会津戦争後は榎本武揚や林董とは行動をともにせず仙台にて降伏しました。明治2年(1869年)に赦免され東京早稲田に蘭疇院設立、明治4年(1871年)に兵部省に出仕し、明治6年(1873年)には大日本帝国陸軍初代軍医総監となりました。その後は明治23年(1890年)に貴族院議員となり明治35年(1902年)に退役しました明治38年(1905年)男爵、明治40年(1907年)3月12日 に死去しました。
松本良順は西洋医学の導入と普及に大きく貢献し、その後も近代医学の発展に尽力しました。日本人に牛乳を飲むことや海水浴をすること推奨し定着させました。
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