第22話「弁天台場を救え」|明日なき戦いの果てに
函館山を奪還するため弁天台場から伝習士官隊長滝川充太郎が新撰組、伝習士官隊を率いて山頂に向かった。山頂からの攻撃が激しく、また大森浜からの艦砲射撃を受けて一本木関門まで退いたが新政府軍の追撃により五稜郭に撤退した。市街を制圧し弁天台場を孤立させた新政府軍は一本木関門に集結し千代ヶ岱陣屋と五稜郭に対峙した。
函館山占領の原因は新選組の怠慢という批判もあり、弁天台場は島田魁をはじめとする新選組が中心となり守備をしていた。11日早朝、土方歳三は五稜郭を出陣して桔梗に向かった。五稜郭に戻る途中で箱館港で蟠竜丸が新政府軍の朝陽丸を轟沈させたのを見た歳三は兵士の士気を高めた。そして孤立した弁天台場を救出し箱館を奪還すべく出陣したが一本木関門にて馬上で指揮を執っていたところ腹部を撃たれて落馬し絶命した。
陸軍奉行添役大野右仲は歳三の命で弁天台場の方へ進軍していたが総崩れとなり引き返してきた。このとき歳三の直属部下の陸軍奉行添役安富才助が歳三の死を知らせたと伝えられている。歳三の戦死が伝わると箱館政権副総裁の松平太郎は箱館奪還のため諸部隊を率いて五稜郭から出陣し新政府軍と戦ったが撤退を余儀なくされた。弁天台場は新政府軍の攻撃にも拘わらず陥落しなかったが、完全に孤立し残留した兵士たちは立て籠もり防衛するだけとなった。
土方歳三は箱館滞在中は五稜郭には常駐しておらず箱館市中の見廻りを行うため豪商の佐野専左衛門の丁サと呼ばれる万屋を宿所としていた。そのすぐ近くには新選組が屯所とした称名寺があった。歳三の最期の地には諸説あるが、歳三が仲間を救出すべく自身が暮らした箱館市中や弁天台場をめざして一本木関門より先へ先へと進軍しようとする想いの中で絶命したのは間違いないだろう。
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