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2024年6月19日 (水)

日米修好通商条約に調印(1858年6月19日)

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 嘉永7年3月3日(1854年3月31日)の日米和親条約締結により初代日本総領事に就任したタウンゼント・ハリスは幕府に対して日米通商条約の締結を求めました。幕府はハリスの要求に対して消極的な対応を続けました。

初代日本総領事タウンゼント・ハリス
初代日本総領事タウンゼント・ハリス

 ハリスは政4年10月21日(1857年12月7日)に江戸城に赴き13代将軍徳川家定に謁見し国書を手渡しました。ハリスは穏やかで冷静な態度で日米通商条約の必要性を説き、徳川家定や幕府老中の堀田正睦は米国との通商条約の締結はやむを得ないと考えるようになりました。

 幕府は安政4年12月11日(1858年1月25日)から条約の交渉を始めました。全権を委任されたのは下田奉行の井上清直と目付の岩瀬忠震です。2人は国内情勢が不安定な状態で江戸を開市しても商売の見通しが立たないと説きましたが、ハリスはこれを聞き入れずあくまでも通商条約締結を主張しました。交渉は15回にわたりましたがやがて双方が合意に達しました。

 正睦は条約締結にあたり孝明天皇の勅許が必要と考え、安政5年2月5日(1858年3月19日)に京都に赴きました。安政5年3月12日(1858年4月25日)に関白の九条尚忠が朝廷に条約議案を提出すると、き攘夷派の公家が通商条約の締結に反対し堂上家137家のうち岩倉具視や中山忠能ら合計88名が抗議行動の座り込みを行う「廷臣八十八卿列参事件」を起こしました。孔明天皇は従来の和親条約については問題ないと考えていましたが、異国と対等となる通商条約については国の秩序を乱すと考え勅許を拒否しました。

 ハリスは清を侵略しているイギリスやフランスが日本を侵略する可能性があり列強から日本を守るためには日本は米国と通称条約を結ぶ以外に方法はないと主張しました。幕府はハリスの主張を理解し日米通商条約をいち早く締結すべきと考えるようになりました。

 その後、正睦は大老に福井藩主の松平慶永を推薦しましたが、家定の指名により安政5年(1858年)4月23日に井伊直弼が大老に就任しました。幕政の中心となった井伊直弼は日米通商条約の締結を進めました。直弼も当初は孝明天皇の勅許が必須と考えていましたが、老中の松平忠固が朝廷に屈することは幕府権威の低下につながると強硬論を主張、さらに勅許を得られるまで交渉を長引かせることが難しくなり列強から日本を守るためには勅許を得ずに条約に調印することもやむを得ないと許可しました。 

 井上清直と岩瀬忠震は条約調印のため米国海軍のUSSポータハン号に赴き、安政5年6月19日(1858年7月29日)に日米修好通商条約が締結されました。その後、幕府は同年中にオランダ、ロシア、イギリス、フランスとも勅許を得ずに修好通商条約を結びました(安政五カ国条約)。

 万延元年(1860年)、幕府は日米修好通商条約の批准書を交換するため万延元年遣米使節をポーハタン号でアメリカに派遣しました。その護衛の名目で派遣されたのが咸臨丸です。使節団は万延元年閏3月27日(同年5月17日)にワシントンでブキャナン大統領に謁見し、4月2日(5月22日)批准書が交換され日米修好通商条約締結が完了しました。

 この条約は日本に不利な不平等条約で天皇の勅許を得ないで締結したことから攘夷派の公家や諸藩が反発し幕政の混乱が始まりました。直弼は反対派の幕臣、志士、公家などを粛清しました。正睦や旧体制派の幕臣もごとごとく罷免されました。この安政の大獄と呼ばれる事件で幕政はますます混乱し使節団が米国を訪問している間に桜田門外の変が起き直弼が暗殺されました。

 朝廷は安政五カ国条約を認めませんでした。外国勢力を日本から追い出す攘夷論と朝廷を中心とした政治を行う尊王論が結びびつき尊王攘夷論となり幕府への批判や討幕運動が始まり条約の撤回が要求されるようなりました。こうした国内情勢の混乱から幕府は条約にに記載された開市・開港の期限延期などの外交交渉を行いましたが、慶応元年9月(1865年11月)にイギリス・フランス・オランダの連合艦隊が兵庫沖に侵入する兵庫開港要求事件が起き、朝廷も同年年9月16日(1865年11月4日)に各国との条約を勅許しました。

 安政五カ国条約では江戸と大阪の開市、新潟・兵庫を開港することになっていました。しかしながら国内の経済や政治の状況から期限内での履行が困難になったため幕府は開港開市の延期交渉ならびにロシアとの樺太国境の画定交渉のため文久元年(1862年)に欧州に文久遣欧使節を派遣しました。イギリスの協力で派遣団の目的は達成されましたが、 幕政はますます混乱していったのです。

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