日本二十六聖人が列聖(1862年6月8日)
織田信長は鉄砲伝来から武器として鉄砲を重視し天下布武を目指しました。鉄砲をもたらしたポルトガル人から新たな知識や技術を得るため南蛮貿易を行い、敵対する仏教勢力を牽制するためイエズス会のキリスト教宣教師に布教活動を許可しました。
信長が本能寺の変で討たれた後に天下を統一した豊臣秀吉は信長が進めていた政策を継続しイエズス会宣教師たちに布教を許可していました。秀吉も布教を許可する一方でポルトガルから軍艦や大砲を購入し軍備を増強したいと考えました。
ところが秀吉は秀吉が九州を平定し筑前箱崎に滞在していたときにイエズス会の目的が単なるキリスト教の布教ではないことに気が付きました。長崎がイエズス会によってなかば要塞化されキリスト教信者以外のものが奴隷として連れ去られていることを知ったのです。秀吉は天正15年6月19(1587年7月24日)にイエズス会に対して布教を禁止するバテレン追放令を出しましたが、南蛮貿易を重視していたためキリスト教の信仰は禁止せず結果的には布教活動も黙認されることになりました。
日本とスペインは豊臣政権がフィリピンの征服を企てたため外交関係が悪化しましたが、文禄2年(1593年)にフィリピン総督使節としてフランシスコ会宣教師ペドロ・バプチスタが来日し秀吉と謁見、これを機会にフランシスコ会の布教が認められました。フランシスコ会が京都や大阪で勢力を広げると仏教や神道などの宗教勢力が警戒し始めました。
慶長元年8月28日(1596年10月19日)、スペイン船サン=フェリペ号が土佐沖に漂着しました。長曾我部元親はこれを秀吉に報告しました。サン=フェリペ号の船長が保護を求めたところ対応した増田長盛が積み荷の没収を命令したうえでサン=フェリペ号は海賊で武力制圧のため日本にやってきたと告げました。これに航海長が反発し、日本がいかに小国であるか、スペインは宣教師を世界中に派遣し布教活動で信徒を増やし兵力によってその地を制服すると布教活動の背景にある目的を述べました。
増田長盛はこの発言を秀吉に報告、秀吉は再び禁教令を発令しました。そして京都や大阪で勢力を拡大していたフランシスコ会の活動を問題視しました。秀吉は京都奉行の石田三成に命じて京都のフランシスコ会員ならびにキリスト教徒全員を処刑するように命じました。これによってフランシスコ会員7名、信徒14名、イエズス会3名の合計24名が捕縛され京都で市中引き回しされ処刑のため長崎に移送されました。移送中にイエズス会とフランシスコ会の世話をするために同行した2人も捕縛され合計26人が処刑されることになりました。
1597年2月5日(慶長元年12月19日)、長崎では混乱を避けるため民衆に対して外出禁止令が出されましたが、刑場となった西坂の丘にはたくさんの群衆が集まりました。26人は十字架にかけられ槍で突かれて処刑されました。処刑の際にパウロ三木は群衆に対して信仰の正当性について主張しました。パウロ三木の父は織田信長に寵臣として仕えた人物でした。光成はパウロ三木を捕縛する名簿から削除し救おうとしましたができなかったようです。捕縛リストに名のあった高山右近は光成によって救われています。
26人の処刑が終了すると多くの人々が彼らの遺骸や遺物は日本初の殉教者として世界各地に送られ崇敬されました。そして彼らの死から265年後の1862年6月8日、ローマ教皇ピウス9世は26人を列聖しました。列聖された26人は日本二十六聖人と呼ばれるようになりました。
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