五稜郭の箱館奉行所が開所(1864年6月15日)
安政元年(1854年)3月、日米和親条約で箱館が開港すると幕府は蝦夷地を直轄し6月に箱館奉行を基坂(元町公園)に設置した。初代箱館奉行には勘定吟味役・海防掛の竹内保徳が就任した。さらに日露和親条約締結のため国境調査のため樺太・蝦夷地を巡見した堀利煕が就任し2人体制となった。保徳が箱館に着任したのは同年9月で蝦夷地を巡見していた利煕の方が先に箱館に着任していた。
保徳は基坂にあった松前藩の箱館奉行詰役所の改築を考えていたが利煕はこの地が箱館港や箱館山に近く防衛に難があるとし内陸への移転を唱えた。保徳と利煕は幕府に箱館湾内からの艦砲射撃が届かない亀田の鍛治村に城を築き箱館奉行を移転する意見書を提出、阿部正弘がこれを了承し五稜郭と箱館奉行所の建設が決まった。
五稜郭は安政7年(1857年)に着工、箱館奉行所は文久元年(1861年)に建設が開始された。五稜郭は元治元年(1864年)に竣工し同年6月15日に八代目の箱館奉行の小出秀実が五稜郭の奉行所で業務を開始した。五稜郭の工事は付帯施設の建設や植林も含め慶応2年(1866年)に完了した。
大政奉還後、新政府は箱館府を設置し五稜郭は慶応4年(1868年)閏4月に箱館府知事の清水谷公考に引き渡された。同年10月21日に榎本武明が率いる旧幕府軍に占領された。旧幕府軍は五稜郭の防備を固める工事を行い明治2年(1869年)3月に改修が完了した。
五稜郭の箱館奉行所をはじめとする建物の多くは函館戦争後の明治4年(1871年)に開拓使により取り壊された。五稜郭は大正時代に公園として公開されましたが公園内には博物館と広場があるだけであった。
函館市は箱館奉行所の復元をはじめとする五稜郭の史跡整備を計画し昭和60年(1985年)から発掘調査を開始した。平成18年(2006年)、残された資料から箱館奉行所の復元工事が始まり平成22年(2010年)に箱館奉行所が五稜郭に蘇ったのである。
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