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2024年5月16日 (木)

ローマ教皇がジャンヌ・ダルクを列聖(1920年5月16日)

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 ジャンヌ・ダルクは1412年頃にフランス東部のドンレミ村(現ドンレミ=ラ=ピュセル)の農家のジャック・ダルクとイザベル・ロメのの娘として生まれました。ジャンヌの生年が1412年頃とされているのは後の異端審問で本人の19歳ぐらいという証言に基づいています。

 ジャンスは13歳の頃(1425年頃)に大天使ミカエル、聖人アレクサンドリアのカタリナ、聖人アンティオキアのマルガリタのが現れイングランド軍を駆逐して王太子シャルルをフランス王位に就かせよという「神の声」を聴き、3人が姿を消すとあまりの美しさに泣き崩れたと証言しています。ジャンヌは17歳の頃(1429年頃)にフランス王太子シャルル7世のもとに向かいました。シャルル7世に謁見したジャンヌは神のお告げによるフランスを救う使命を伝え軍人となることを許可されました。

ジャンヌ・ダルクの彩画(1900年頃)
ジャンヌ・ダルクの彩画(1900年頃)

 シャルルは7世はイングランド軍に支配されていたオルレアンにジャンヌを派遣しました。ジャンヌの指揮により劣勢だったフランス軍は勝利を重ね、1429年5月8日にオルレアンを奪還し百年戦争の戦局に大きな影響を与えました。1429年7月、フランス王シャルル7世の戴冠式を執り行われ、ジャンヌは「神の使い」として国民から英雄視されました。

 その後もフランス軍はイングランド軍に占領されていた領土を取り戻したがやがて戦争は膠着状態となりランスとイングランドとの間で休戦協定が結ばれました。この休戦協定はすぐに失効し、ジャンヌは1930年5月にコンピエーニュ包囲戦の援軍として派遣されました。ジャンヌはブルゴーニュ公国軍を攻撃しましたがブルゴーニュ公国軍の援軍が到着したことから撤退を余儀なくされました。ジャンヌは自らが殿となって戦いましたが退路を断たれ矢を撃たれ馬から転がり落ちました。そしてブルゴーニュ公国軍部将リニー伯ジャン2世に捕らえられ捕虜となりました。当時は捕虜は身代金の支払いで身柄の引き渡しをするのが一般的でしたがシャルル7世はイングランドとの和平を重視しジャンヌを見捨てました。ジャンヌは何度か脱走を試みましたが失敗しました。

 イングランドはブルゴーニュ公フィリップ3世とリニー伯ジャン2世と交渉し、リニー伯に身代金を支払ってジャンヌの身柄を引き取りました。この交渉で重要な働きをしたのがフランス人司教ピエール・コーションでしたがこの人物はイングランドを支持していました。12月にジャンルがイングランドに連行されると、ピエール・コーションはジャンヌを異端審問にかけました。

 ジャンヌの異端審問は政治的なものでした。ジャンヌの影響力とシャルル7世への支持がイングランドとブルゴーニュ派フランス人にとって都合の悪いものだったのです。ジャンヌは物的証拠も法的根拠もなく異端審問裁判にかけられ有罪とされたのです。

 ジャンヌが有罪となった理由のひとつはジャンヌの神の声を直接聞いたという主張です。当時は神の言葉はラテン語であり神学を学んだ聖職者のみが伝えることができるとされていました。聖職者でもなくラテン語の教育を受けていないジャンルの主張は虚偽であり教義に反すると見なされました。もうひとつの理由はジャンヌが男装していたことです。ジャンヌは甲冑にズボンを着用していましたがこれが性別を変える行為であり教義に反すると見なされたのです。

 このような理由でジャンヌは異端として有罪となり死刑判決を受けましたがジャンヌは自身の信念を変えることはありませんでした。1431年5月30日、ジャンヌはルーアンのヴィエ・マルシェ広場で高い柱に縛り付けられ火刑が執行されました。ジャンヌは修道士に十字架を掲げるよう懇願し、イギリス人兵士がジャンルの十字架を掲げてジャンルに見えるようにしました。命が尽きるまでイエスの名前を叫んだと伝えられています。こうしてジャンヌは19歳でその生涯を終えたのです。

 ジャンヌの死後も百年戦争は続き22年後の1453年まで続きました。百年戦争がフランス勝利で集結するとジャンルの有罪判決の正当性と教会法に従って裁判が進められたかをローマ教皇カリストゥス3世の命で調査することになり、1455年11月7日にジャンヌ・ダルク復権裁判が始まりました。多くの人々の証言により1456年6月にジャンヌは殉教者であることが認められ、フランス人司教ピエール・コーションはジャンヌの裁判について無実の女性が有罪判決を受け異端者として破門され処刑されたと結論付けました。ジャンヌの死から25年後の1456年7月7日、ジャンヌ・ダルクの復権が宣言されました。

 1869年、フランスのオルレアンの司教フェリックス・デュパンルーがジャンヌの列聖を申請したことがきっかけでジャンヌの列聖の声が高まりましたが実際に動き出したのは20世紀に入ってからです。1904年1月8日、ローマ教皇ピウス10世はジャンヌを尊者と宣言、1909年1月24日にローマ教皇庁はジャンヌを列福し1909年4月18日に列福式を行いました。そして1920年5月16日、ローマ教皇ベネディクトゥス15世によりジャンヌの列聖式が行われ、ジャンヌ・ダルクはカトリック教会の聖人に列聖されました。

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