第15話「江戸城無血開城」|明日なき戦いの果てに
慶応4年(1868年)1月6日、鳥羽・伏見の戦いで徳川軍の敗戦が決定的になると会津藩士の神保修理は大阪城で徳川慶喜と藩主の松平容保に恭順するよう進言した。新政府軍が戦場で錦の御旗を掲げたため朝敵とされることを恐れた慶喜は江戸に戻り朝廷に恭順することを決めたが本心は語らずに軍議を開いた。
多くの者が徹底抗戦の構えで慶喜の出馬を求めたので慶喜は別室で老中の板倉勝静と若年寄の永井尚志に江戸に戻ることのみを伝えた。軍議の席に戻りこれから打ち立つので準備するよう告げると、諸氏は慶喜の決断を喜び勇んで持ち場に戻った。誰もが慶喜が先頭に立って抗戦すると信じていたのである。
同日夜、慶喜は勝静、酒井忠惇、容保、桑名藩の主松平定敬らと従者を引き連れて大阪城を脱出した。大阪湾で開陽丸に乗り込み澤太郎左衛門に命じて江戸に向かった。このとき海軍総裁の矢田堀景蔵(鴻)と開陽丸艦長の榎本武陽は不在で2人は戦地に置き去りとなった。
慶喜は船内で勝静だけに本心を告げたが、他の者たちは再軍備のため江戸に戻ると考えていた。一行が江戸城に戻ったのは1月12日午前中である。慶喜は抗戦派の小栗忠順、容保、定敬を抑え恭順を固辞、勝静と尚志を罷免、容保と定敬に謹慎を命じ、事態収拾を勝海舟と大久保一翁に任せ自らは2月12日に上野の寛永寺大慈院で謹慎した。このとき慶喜警護の目的で結成されたのが渋沢成一郎頭取の彰義隊である。
新政府軍は江戸城を開城させ慶喜を捉えるため江戸に軍隊を派遣した。慶喜は側近の高橋泥舟に西郷隆盛との交渉を命じたが、泥舟は慶喜警護のため義弟の山本鉄舟を推薦した。鉄舟と隆盛の下交渉の後に隆盛と海舟との間で交渉が行われ江戸無血開城の話がまとまった。4月11日、慶喜は慶寛永寺から水戸へ出発、江戸城は開城した。
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