新政府軍が彰義隊に宣戦布告で上野戦争勃発(1868年5月15日)
慶応4年(1868年)1月6日、鳥羽・伏見の戦いで徳川軍の敗戦が決定的になると朝敵とされることを恐れた慶喜は大阪城を脱出し江戸に戻り朝廷に恭順することを決めた。慶喜は同年1月12日に江戸城に戻り抗戦派の小栗忠順、松平容保、松平定敬などを抑え朝廷への恭順を固辞し、事態収拾を勝海舟と大久保一翁に任せ自らは2月12日に上野の寛永寺大慈院で謹慎した。
2月23日、将軍慶喜を警護する名目で抗戦派の幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎が頭取、天野八郎が副頭取となって彰義隊を結成した。幕府の恭順派は彰義隊の結成を認め慶喜警護の他に江戸市中の警備を命じ彰義隊が新政府軍と衝突しないよう懐柔をはかった。江戸の町を警護する彰義隊は市民からの評判は良かったが、新政府軍が江戸に向かって進軍を開始すると事態は変わった。
海舟と新政府軍東征大総督府参謀の薩摩藩の西郷隆盛の会談により慶喜の水戸謹慎と江戸開城が決まると江戸の町への総攻撃は回避された。慶喜が水戸に移動すると彰義隊は寛永寺貫主の日光輪王寺門跡(輪王寺宮)の公現入道親王の元で徳川将軍家霊廟守護を名目として寛永寺に留まりました。まもなく各地から佐幕派の脱藩兵が集まり出すと、海舟は江戸での武力衝突を避けるため彰義隊に解散を要求しました。頭取の成一郎は彰義隊を上野から日光へ移動することを決めたが副頭取の八郎が強硬に反対した。八郎の隊士らにより暗殺されそうになった成一郎が彰義隊を離れると、彰義隊は上野で新政府軍に徹底抗戦することを決めた。
慶応4年5月14日に大総督府は寛永寺の旧幕府軍を討伐することを決定、恭順派の徳川家臣らに寛永寺から徳川家の所蔵物を持ち出すよう命じ、輪王寺宮には寛永寺からの退去を促した。徳川家臣らは新政府軍に彰義隊に解散を説得するので開戦を遅らせるよう求めたが新政府軍はこれに応じず5月15日に宣戦布告を行った。上野戦争における新政府軍の指揮は長州藩の大村益次郎が担当した。益次郎は旧幕府軍を全滅させる考えで隆盛が「皆殺しにするのか」と尋ねるとあっさりと「そうです」と答えたと伝えられている。
新政府軍の圧倒的な攻撃で午後5時頃には勝敗が決まり彰義隊は壊滅した。上野彰義隊事件の戦況は中外新聞が「別段中外新聞」で報道していますがこれが日本初の新聞の号外となりました。次の錦絵は歌川芳盛が「本能寺合戦之図」ですが実際は上野戦争を描いたものです。 歌川芳盛が本能寺合戦の名を借りて上野戦争を描いた錦絵とされています。
彰義隊の残党は輪王寺宮と潜伏し榎本武揚の艦隊で平潟港(茨城県北茨城市)に落ち延びた。春日左衛門が率いる陸軍隊などはいわき方面、その他の隊士は会津へ向かった。こうして戊辰戦争は東北戦争へと進んでいった。
彰義隊を率いた天野八郎は市中に潜んでいたところを密告されて捕らえられた。40人ほどの部隊を率いて突撃しようと後ろを見たら誰もいなかったと獄中で書き記している。5ヶ月後に獄中で病死した。彰義隊の頭取だった渋沢成一郎は榎本武揚が艦隊を率いて江戸を脱出したときに同行し箱館戦争まで参戦した。
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