第二次東禅寺事件(1862年5月29日)
文久元年(1861年)5月28日の第一次東禅寺事件が起きるとラザフォード・オールコックは江戸は政情不安と考え公使館を横浜に移しました。
安政5年(1858年)に安政五カ国条約を締結した幕府は国内の経済や政治の状況から各国に対して新潟、兵庫および江戸、大坂の開港開市の延期を求めていました。オールコックは当初は要請を拒否していましたが幕府の置かれた状況を理解し、幕府が各国に派遣する文久遣欧使節を支援するため文久2年2月に離日しました。
オールコックが帰国中に代理公使を務めたエドワード・セント・ジョン・ニールは英国公使館を横浜から東禅寺に戻しました。このとき英国大使館の警備は大垣藩、岸和田藩、松本藩が担当しましたが、松本藩の伊藤軍兵衛が警護の費用負担を強いられていることや外国人警護のために日本人同士が戦うことに不満に感じ公使を殺害すれば警護の必要がなくなると考えるようになりました。
文久2年(1862年)5月29日の夜中、軍兵衛はニール代理公使を殺害しようと公使館の寝室に侵入しようと試みましたがイギリス兵に発見されました。軍兵衛はイギリス兵を倒したものの負傷し逃走先で自刃しました。
ロシア軍艦対馬占領事件や文久遣欧使節の派遣でイギリスの多大な協力を得ていた幕府は事態を深刻に捉えて公使館の警備責任者を処罰、松本藩主の松平光則には差控を命じました。その後、幕府とイギリスの間で賠償金の交渉が行われましたが紛糾してまとまらないうちに武蔵国橘樹郡生麦村(神奈川県横浜市鶴見区生麦)で薩摩藩が生麦事件を起こったのです。
幕府が第二次東禅寺事件と生麦事件の賠償金を支払い事件は解決しましたが、イギリスは薩摩と直接交渉を行うため軍艦を派遣、これが幸英戦争に発展します。薩英戦争後の講和交渉でイギリスは薩摩藩を評価しお互い関係を深めていくことになり、薩摩藩はイギリスの協力を得て軍備を整えていきます。
【関連記事】
・文久遣欧使節がイギリスとロンドン覚書を調印(1862年5月9日)
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