東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドルが浦賀に来航(1846年5月27日)
弘化3年(1846年)閏5月27日、浦賀沖に2隻に軍艦が現れました。浦賀奉行と通詞の堀達之助が訪れると2隻の軍艦はアメリカ合衆国の東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドルが率いる戦列艦コロンバスとスループ・ビンセンスであることがわかりました。 ビドルは日本との通商条約締結の要望を伝えました。ビドルが締結を求めた条約はアヘン戦争後の1844年7月にアメリカ合衆国と清が結んだ望厦条約と同等なもので不平等なものでした。
ビドルはもともと清に滞在中の公使に日本との外交交渉開始の指令書を届けにきたのですが、その指令書には公使が日本に行くことができない場合はビルド自身が日本に赴き交渉するように書かれていました。
浦賀奉行の大久保因幡守は前日の26日に異国船の発見を江戸幕府に報告し指示を仰いでいましたが、幕府は条約締結を断り速やかに帰帆させるよう伝え海防を担う川越藩や忍藩に警護を命じました。やがて2隻の軍艦を多数の日本船が取り囲みました。幕府の使者が小舟でコロンバスに近づき公式な回答を伝えるためビドルに対して上陸を促しましたがビルドは自分の船に返書を持参するよう求めました。この交渉中に通訳のミスによる確認不足があり、ビルドは日本船で返書を受け取とるため小舟に乗って高官が乗船していそうな最も高級に見えた川越藩の船に近づき乗り移ろうとしました。川越藩の船にとってこのビルドの行動は想定外のことであり、船上の川越藩の兵がビルドを突き飛ばして小舟に押し戻しました。
この川越藩の行動にビルドは激怒しましたが指令書に日本との交渉は穏便に進めるようにと書いてあったためことを荒立てずに謝罪と兵の処分のみを求めました。戦列艦コロンバスは多くの大砲を備えており兵隊も十分に訓練されたいたため一触即発の状態であることを認識した浦賀奉行や幕府の役人はビルドに謝罪し兵を処分することを約束しました。そしてビルドに対し日本はオランダ以外との通商を行わないこと、外交は長崎で行うため回航するよう伝えました。ビルドは交渉を中止し同年6月7日に浦賀を出港しましたが無風のため航行できず幕府の船が沖合まで曳航したそうです。
この事件以降、幕府は異国船について軽率な行動は取らず穏便に対応することを徹底しました。アメリカ合衆国のマシュー・ペリー提督率いる黒船艦隊が来港するのはこの事件から7年後の嘉永6年6月3日(1853年7月8日)のことです。
【関連記事】
・イギリス船ブラザーズ号が浦賀に来港(1818年5月14日)
・東インド艦隊司令長官ジェームズ・ビドルが浦賀に来航(1846年5月26日)
・イギリス軍艦マリーナ号が浦賀で測量開始(1849年4月9日)
・米国捕鯨船マンハッタン号が日本に寄港(1845年4月18日)
・マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)
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