イギリス船ブラザーズ号が浦賀に来港(1818年5月14日)
文政元年(1818)5月14日、イギリスのピーター・ゴードン艦長が率いる商船ブラザース号が浦賀に現れました。ブラザーズ号は江戸時代後期に江戸湾に初めて来航した異国船です。この地域の海防を担っていた浦賀奉行と会津藩は多数の船を出しブラザーズ号を取り囲みました。
江戸幕府が通訳を派遣しブラザーズ号の目的を確認するとゴードン船長は江戸での交易を要求しました。ブラザーズ号はアジア・太平洋の港に寄港しながら交易を行う商船で江戸に立ち寄ったのです。
ブラザーズ号の来航の報告を受けた浦賀奉行、幕府代官の大貫次右衛門、通訳の天文方の馬場左十郎、足立左内様などが17日に到着し、翌18日からゴードン船長と会見しました。19日に現行法では交易ができないことを伝えるとゴードンは示威行動を起こすこともなく了承しました。幕府側は没収した武器などを全て返却、ブラザーズ号は21日に出帆しました。
ブラザーズ号の来港では特に大きな問題は起こりませんでしたが江戸湾への異国船の出現はその後の日本の外国政策に大きな影響を与えることになりました。その後も度重なる異国船が現れると幕府は海防を強化する目的で文政八年(1825年)2月18日に外国船を閉め出すための異国船打払令(無二念打払令)を発令しました。当面は攘夷論が主流でしたが嘉永6年(1853年)に米国のマシュー・ペリー提督の黒船来港により江戸幕府は開国か攘夷かを迫られることになり幕政は混乱していったのです。
ブラザーズ号の来航については横浜開港資料館の館報の「開港のひろば」152号に企画展『七つの海を越えて「鎖国」下の日本とイギリス』の展示談話として詳しい解説が掲載されています。
「開港のひろば」はとても勉強になります。バックナンバーも読むことができます。
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