織田信長が安土城に移居(1579年5月11日)
天正4年(1576年)1月、織田信長は天下布武の拠点として岐阜の稲葉山より京都に近く水運を活用できる琵琶湖沿岸の標高199メートルの安土山を選び、重臣の丹羽長秀を総普請奉行に任じこの地に安土城の築城を命じました。この地は北陸から京都へ向かう北陸街道の要衝にもなるため越前や加賀の一向一揆や上杉謙信への対策にもなったとされています。
安土城は六角氏の観音寺城を参考に石垣で普請され、石垣の上に天守のある初めての城となりました。安土城の築城技術を使った城が江戸時代までに全国各地で築城されました。その背景には安土城の普請を手がけた石垣職人集団「穴太衆」の存在がありました。
安土城は地下1階地上6階建てで天主の高さは約32メートルもありました。その姿はかつての城とは異なり天下布武を人々に知らしめる独創的かつ豪華なものでした。大手門からの道は直線で幅が6メートルもあり、城としては防御設備も十分ではありませんでした。安土城は軍事用の城としてではなく政治や経済の拠点として作られたと考えられます。本丸の御殿は清涼殿とよく似ており天皇を迎えるための施設だったという説もあります。
安土城が完成し織田信長が正式に天守に移ったのは天正7年(1579年)5月11日の吉日です。織田信長は天守で生活し、家族は本丸付近、家臣は山腹の武家屋敷もしくは城下町の屋敷で生活しました。
明智光秀が饗応役を命じられた徳川家康の接待は天正10年(1582年)5月15日に安土城で執り行われました。 天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変が起こったときには安土城には留守居役として蒲生賢秀が在城していましたが、明智光秀に占領される前に蒲生賢秀・氏郷父子が本拠地の日野城に信長妻子などを退去させました。
山崎の戦いで光秀が敗れると安土城で原因不明の出火が起こり豪華な天主と本丸が焼失しましたが、本能寺の変の後も織田氏の居城として使われました。清洲会議の後には織田信長の嫡孫で織田信忠の嫡男の秀信(三法師)が居城としています。
豊臣秀吉が天下を統一すると秀吉養子の豊臣秀次の八幡山城を築城するため安土城は天正13年(1585年)に廃城とされました。八幡山城の建設資材には安土城のものが流用されました。安土城は現在は石垣などの遺構を残すのみです。安土城がどのような姿をしていて城下町がどのような暮らしぶりであったのかは宣教師ルイス・フロイスが書き記しています。
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