イギリス軍艦マリーナ号が浦賀で測量開始(1849年4月9日)
マシュー・ペリー提督の黒船来航より4年前の嘉永2年4月(1849年5月)、相模湾にイギリス軍艦マリーナ号が現れました。すぐに日本船が近づき役人がマリーナ号に乗り入れ湾内に進まないよう警告しました。マリーナ号は役人を乗せたまま浦賀水道に入り投錨しました。武装した日本船が現れたためマリーナ号も警戒態勢を取りました。この船には1837年に来航したアメリカのモリソン号が日本に送り返そうとした漂流者の音吉が通詞として乗船していました。このとき音吉は異国と交わり法を犯した罪で幕府に捕まることをおそれ中国人と称したようです。
同年4月9日(同年5月30日)、薪と水を積載した日本の小船が現れたためマリーナ号艦長は役人に幕府高官に日本語の名刺を届けるよう依頼しましたが役人は物資補給が任務であり異国人との交渉は違法であるとして断りました。役人の警告にも拘わらず、マリーナ号はこの日から浦賀付近の測量を始めました。
翌日10日に役人がマリーナ号を訪れ直ちに退去するよう求めましたがこの日の午前中は風向きが悪いため出港することができませんでした。マリーナ号は午前11時30分頃に浦賀を出港しましたが、そのまま相模湾から退去せず江戸湾に向かい測量を行いました。マリーナ号は翌日も測量を続けた後、下田湾に向かい下田に上陸しました。役人はマリーナ号に直ちに退去するよう伝えました。マリーナ号は多くの地点に上陸しながら測量を続けました。役人はこれを警戒していましたがマリーナ号が攻撃や略奪をしないことを理解すると黙認しました。
マリーナ号が測量をし続けるため幕府は韮山代官の江川英龍(えがわひでたつ)にマリーナ号を追い払うよう要請しました。英龍は大筒小銃を備えて約40人の兵士を引き連れて下田に向かいました。4月16日、英龍はマリーナ号艦長に対して紳士的に対応し、日本は異国と交渉はしないので速やかに退去するよう求めました。艦長も英龍の要請を了承しましたがこの日は天候不良で出港できませんでした。翌日17日にマリーナ号は錨を上げて日本の小船に曳航され下田湾から出港しました。
【関連記事】
・モリソン号事件と7人の日本人(1837年6月28日)
・米国捕鯨船マンハッタン号が日本に寄港(1845年4月18日)
・マシュー・ペリー提督の艦隊の再来航(1854年1月16日)
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