幕府が軍艦教授所(軍艦操練所)を設立(1857年4月11日)
嘉永6年(1853年)の黒船来航により幕府は洋式軍艦の建造と艦隊の所有を決めた。幕府は最初の海軍教育機関としてオランダの協力を得て安政2年(1855年)に長崎海軍伝習所を設立した。長崎海軍伝習所の初代総監理には永井尚志が就任、オランダから教員が派遣され蒸気船の観光丸が練習船として供与された。伝習所の最初の目的はオランダに発注した咸臨丸と朝陽丸の乗組員養成であり、勝海舟、矢田堀景蔵、中島三郎など第一期生37名が入校した。このとき榎本釜次郎(武陽)も入校を希望したが叶わず聴講生となり翌年第二期生として入校している。
幕府は海軍の教育機関を江戸築地の武芸訓練機関である講武所にも設置することを決め長崎海軍伝習所から永井尚志と一部の伝習生を観光丸とともに呼び寄せ安政4年4月11日(1857年5月4日)に軍艦教授所を設置した。
軍艦教授所と長崎海軍伝習所は併設されていたが安政6年(1859年)に長崎海軍伝習所は閉鎖され軍艦教授所が主たる海軍教育機関となった。当初は幕臣向けの教育機関であったが諸藩から藩士も受け入れるようになった。元治元年(1864年)には軍艦操練所と改称された。同年、付近の火災の延焼で施設の大半が焼失したが小栗忠順らが直ちに再建した。
次の図は二代目の歌川国輝の明治2年の作品の東京築地鉄砲洲景であるが右側の大型船のあるやや下が海軍操練所である。
軍艦操練所は勝海舟など長崎海軍伝習所の卒業生が教官となった。榎本武揚は安政5年(1858年)に教授となった。短期間ではあるがジョン万次郎も教授を務めた関係で武陽はジョン万次郎の私塾で英語を習い、この私塾で大鳥圭介に出会っている。
軍艦操練所の練習艦は観光丸、咸臨丸、朝陽丸の蒸気船、鵬翔丸、昌平丸、君沢形などの帆船が使用された。万延元年遣米使節派遣の際には
咸臨丸で勝海舟をはじめとする教官たちが乗艦している。
軍艦操練所は軍艦所と改称され慶応2年(1866年)には幕府海軍の行政機関の役割を果たすようになりとしての機能も追加されて海軍所となった。慶応3年(1867年)に再び火災で焼失し、海軍所は築地から浜御殿へ移転した。イギリスの顧問団による教育が計画されたが江戸幕府の終焉により実現しなかった。
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