第10話「渋沢従兄弟の有為転変な人生」|明日なき戦いの果てに
渋沢成一郎は天保9年(1838年)に武蔵国血洗島村(埼玉県深谷市血洗島)の渋沢文左衛門の長男として生まれた。渋沢家は代々養蚕業を営む名主である。文左衛門の家は分家だったが本家の跡継ぎとして弟の源助が養子に出た。この源助の長男が渋沢栄一である。
成一郎と栄一は年長の従兄尾高惇忠のもとで儒教や日本史を学んだ。惇忠は第9代水戸藩主徳川斉昭の鷹狩りを見て尊皇攘夷論の基礎となる水戸学に傾倒していた。影響を受けた2人は江戸に赴き儒学と北辰一刀流の剣術を学び、勤王の志士と尊皇攘夷をめざすようになった。
文久3年(1863年)、惇忠、成一郎、栄一は高崎城を乗っ取り横浜の外国人居留地を攘夷する計画を立てた。京都で八月十八日の政変を見た惇忠の弟尾高長七郎は無謀な計画を中止するよう説得した。成一郎と栄一は説得に応じ京都に赴いたが攘夷の勢力は衰退していた。
このとき2人は江戸で知り合った一橋徳川家の家臣平岡円四郎と再会し、志はそのまま円四郎の家臣となった。翌年、長七郎が江戸で捕まり所有していた書簡から2人の倒幕の志が露見したが、円四郎は2人を処分せず一橋徳川家の家臣となるよう勧めた。倒幕の志士が幕府直属家臣になる矛盾はあれど死んでしまっては元も子もないと考えた2人は提案を受け入れた。一橋徳川家当主は斉昭の子徳川慶喜で幕府の中心とは異なる考えを持っていた。2人は慶喜のもとで良く働き高く評価された。
慶応2年(1866年)12月、慶喜が第15第征夷大将軍となると転機が訪れた。栄一は慶応3年(1867年)にフランスのパリの万国博覧会に派遣され先進的な政治や産業の近代社会に目覚めた。幕府終焉時は日本におらず帰国後は新政府で官僚として働き実業家に転身した。一方の成一郎は幕末の混乱の中で鳥羽・伏見の戦いに参戦、将軍警護のため彰義隊を結成、後に榎本武陽と行動をともにし箱館へ向かった。
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