巌流島の戦い(1612年4月13日)
江戸時代に宮本武蔵と岩流こと佐々木小次郎が行ったと伝わる巌流島の戦い。
宮本武蔵は剣術家で二刀を用いる二天一流兵法の開祖で諸国を旅しながら剣術の腕を磨いていました。佐々木小次郎は不明な点も少なくありませんが実在の剣客で武者修行のため諸国を旅して剣術「燕返し」を編み出し「岩流」と呼ばれる流派の創始者となり自らも岩流と名乗りました。
巌流島の戦いがいつ行われたのかは諸説ありよくわかっていませんが一般には江戸時代初期の慶長17年4月13日(1612年5月13日)に行われたと伝えられています。この日付はは安永5年(1776年)に熊本藩の二天一流兵法師範の豊田景英が著した宮本武蔵の伝記「二天記」の記述によるものですが他説に比べてとりわけ信憑性があるというわけではありません。
巌流島の戦いに関する最も古い記録は小倉碑文に記されたものです。その記録によると、岩流と名乗る剣術の達人が武蔵に真剣勝負を申し入れ、武蔵は岩流は真剣で構わないが自分は木刀を使用すると言って決闘の約束をした。 長門と豊前の間にある舟嶋で決闘が行われ、岩流は三尺の真剣で武蔵に勝負を挑んだが武蔵は電光より早い木刀の一撃で岩流を絶命させた。舟嶋は後に岩流嶋と呼ばれるようになったとあります。
巌流島の決闘は宮本武蔵と佐々木小次郎の1対1の勝負と伝えられています。しかし門司城代の沼田延元の子孫が編集した「沼田家記」には巌流島の決闘は武蔵と小次郎の弟子同士のどちらの師が強いかという言い争いがきっかけになって行われたとあります。お互いに島には弟子達を連れてこないという約束でしたが、小次郎は単独で島に来たものの、武蔵の複数の弟子が島に来て決闘を隠れて見守ったとあります。決闘は1対1で行われ武蔵が勝利しましたが小次郎は木刀で打たれて気絶しただけでした。息を吹き返したところを武蔵の弟子達が絶命させたとあります。この話を聞いた小次郎の弟子達は武蔵に復讐しようとしましたが武蔵は門司まで逃げて城代の沼田延元に匿ってもらったと伝えられています。巖流島の戦いに関する民間伝承も「沼田家記」の記録によく似ているという指摘があります。
よく知られている武蔵が巌流島に遅れてきた話や小次郎が刀の鞘を投げ捨てた話は宝暦5年(1755年)に著された熊本藩の二天一流に伝わる武蔵伝記「武公伝」に記述されたものです。「二天記」も「武公伝」も巌流島の戦いの100年以上後にまとまられたものです。巌流島の戦いには不明な点も多く、武蔵の「五輪書」にも巌流島の戦いについての記述がありません。
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