第12話「大政奉還と明治政府樹立」|明日なき戦いの果てに
幕府は政局の安定を図るため朝廷とともに国を治める公武合体を考えるようになり、万延元年(1860年)に朝廷に対し孝明天皇の異母妹の和宮を家茂の正室とすることを要請した。孝明天皇は尊王論に賛成だったが国政を朝廷だけで執り行うのは困難と考え公武合体に理解を示し、幕府に対して攘夷鎖国を条件にこの要請を了承した。
慶応2年(1866年)7月に家茂が死去すると同年12月に15代将軍に徳川慶喜が就任した。慶喜は孝明天皇と公武合体を進めたが孝明天皇が崩御し後ろ盾を失った。やがて徳川家が独占する幕藩体制から広く人材と意見を集める公議政体論へ転換すべきと主張する勢力が優位になった。慶応3年(1867年)5月に四侯会議が設置されたが、慶喜が政治力で公議政体論を有名無実なものとした。薩摩藩は議論は不可能と考え長州藩と同様に武力で倒幕する方針へ転換した。
慶応2年(1866年)、土佐藩の後藤象二郎は武力による倒幕の大義をなくし政治を議論で進めるためにも幕府は政権を朝廷に返すべきだと考えた。象二郎はこの案を土佐藩前藩主山内容堂に具申した。容堂は山内家が初代山内一豊から徳川家に仕えたことから尊皇攘夷に反対の立場を取っていた。藩内で台頭した土佐勤王党などの尊皇攘夷派を処分したが国の流れまでは変えることはできずにいた。
公武合体を考えるようになった容堂は慶応3年(1867年)に幕府が政権を朝廷に返したうえで徳川家が政治の中心的役割を担う立場を取るよう上申した。
倒幕の動きを察知し幕府の行き詰まりと身の危険を感じていた慶喜は容堂の意見を受け入れた。慶応3年(1867年)10月14日に大政奉還を申し入れ翌15日に受理された。同年12月9日、京都御所の御学問所にて明治天皇より勅令王政復古の大号令が発せられ新政府が樹立したのである。
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