少年よ大志を抱け(1877年4月16日)
箱館戦争が終結すると明治政府は蝦夷地を北海道に改名し北海道の開拓と警備を進めました。明治2年(1869年)に札幌本府の建設が始まり明治5年4月15日(1872年5月21日)、東京芝公園の芝増上寺に開拓使仮学校が設置されました。この開拓使仮学校の初代校長には函館政権で海軍奉行を務めた荒井郁之助が就任しています。この学校は北海道開拓のための人材の育成を目指したもので札幌に移転する計画でした。
明治8年(1875年)5月、最初の屯田兵が札幌郊外の琴似兵村に入所すると開拓使仮学校が東京から移転し、同年7月29日に札幌学校と改称、明治9年(1876年)8月14日に札幌農学校とし開校式が行われました。札幌農学校の校長は日本人が歴任していますが、事実上の初代校長は初代教頭として招かれた米国マサチューセッツ農科大学学長のウィリアム・スミス・クラーク博士です。
クラーク博士がマサチューセッツ農科大学で教鞭を執っていた頃、学生の中に後に同志社大学の創始者となった新島襄がいました。新島襄は日本政府にクラーク博士を紹介し、日本政府の強い要請により札幌農学校にやって来ました。クラーク博士はマサチューセッツ農科大学での1年間の休暇を利用して来日したため日本に滞在したのはわずか8ヶ月でした。
クラーク博士はマサチューセッツ農科大学のカリキュラムを札幌農学校で展開しました。立場は教頭でしたが札幌農学校の運営は実質的にクラークが取り仕切りました。クラークの上司は開拓使の黒田清隆でクラークに英語の肩書きを札幌農学校のPresidentとすることを認めていたのです。クラークは札幌農学校をさらに発展させるため自分の後継者にマサチューセッツ農科大学の教え子を指名し、学問のみならず規律など学生の教育を行い自律的学習を学生に促しました。
クラーク博士は明治10年(1877年)に離日することになりました。クラーク博士は札幌を出発する明治10年(1877年) 4月16 日に月寒村島松駅逓所(北広島市島松)で「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」という言葉を残しました。この言葉は後世の創作とされていましたが、後にこの言葉が記録されている同窓会誌「恵林」13号(1894年頃)が発見され創作ではないことが判明しました。
この資料によるとクラーク博士が残した言葉は「Boys, be ambitions like this old man」でしたがambitionsはambitiousの誤植で「Boys, be ambitious like this old man」であり、その意味は「この老人のように、あなたたち若い人も野心的であれ」でした。このbe ambitiousが「大志を抱け」と訳されたのです。
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