廷臣八十八卿列参事件(1858年3月12日)
嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に締結された日米和親条約により初代日本総領事となったタウンゼント・ハリスは幕府に対して日米通商条約の締結を求めました。幕府は条約締結に消極的でしたが、穏やかで冷静な態度のハリスの主張を聞いた13代将軍徳川家定や幕府老中の堀田正睦は列強から日本を守るためには通商条約を結ばざるを得ないと考えるようになりました。
幕府はハリスと条約締結に向けての交渉を開始しましたが、正睦は条約締結にあたって孝明天皇の勅許を得ることにしました。国内では日米和親条約の締結以降に水戸藩を中心とする攘夷論が高まっていました。天皇の勅許が得られれば攘夷論と条約締結による幕府への批判を抑えることができると考えたのです。
正睦は勅許を得るため京都に赴きましたが攘夷派の公家が通商条約の締結に反対しました。安政5年3月12日(1858年4月25日)に関白の九条尚忠が朝廷に条約議案を提出すると、堂上家137家のうち岩倉具視や中山忠能ら合計88名が抗議行動の座り込みを行う「廷臣八十八卿列参事件」(ていしんはちじゅうはちきょう れっさんじけん)を起こしました。和親条約については問題ないと考えていた孝明天皇も通商条約については国の秩序を乱すと勅許を拒否しました。
勅許を得ることができなかった正睦は失脚し、大老に就任した井伊直弼が幕政の中心となりました。米国からの通商条約締結の催促に井伊直弼は天皇の勅許が得られなくても条約締結はやむを得ないと考えるうになり、安政5年6月19日(1858年7月29日)、日本とアメリカ合衆国の間で日米修好通商条約が締結されました。この条約は日本に不利な不平等の条約でした。これに対して攘夷派の公家や諸藩が反発しました。
外国勢力を日本から追い出す攘夷論は幕府ではなく朝廷を中心とした政治を行う尊王論が結びついて尊王攘夷論となり、幕政批判や討幕運動の気運が高まるようになりました。直弼は安政5年(1858年)から安政6年(1859年)にかけて幕府に反対する公家や諸藩を粛正・弾圧しました。この「安政の大獄」は呼ばれる事件で幕府に対する不満は一気に高まることになり尊王攘夷論を主張し倒幕の動きが強まりました。
安政7年3月3日(1860年3月24日)、井伊直弼は江戸城桜田門外で水戸藩の脱藩者らに襲撃され暗殺されました。これが「桜田門外の変」です。井伊直弼の暗殺により幕府はますます混乱することになります。日本は戊辰戦争、幕府の崩壊、大政奉還、王政復古、明治政府樹立と混乱しながら新しい時代に向かっていったのです。
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