東京大空襲と東京都平和の日(1945年3月10日)
3月10日は「東京都平和の日」です。昭和20年(1945年)3月10日に東京で米軍B29爆撃機による爆撃、いわゆる東京大空襲があったことから東京都は平成2年(1990年)7月に「東京都平和の日条例」を制定し、3月10日を「東京都平和の日」と定めました。
第二次世界大戦で東京は100回を超える空襲を受けていますが、特に昭和20年(1945年)3月10日の空襲では罹災者は100万人を超え約10万人の死者が出たことから東京大空襲と呼ばれます。
米軍は日本本土を空襲する作戦を計画する際に日本各地の土地柄や歴史的な出来事を調査しました。東京については江戸時代の大火や関東大震災の事例を研究し、木造住宅が密集する大都市東京は火災に対して脆弱で焼夷弾による攻撃が最も効果的に都市を破壊できるという調査結果を得ていました。また日本の高射砲の性能が劣ることに気が付き高度3000メートルの低空飛行で爆撃が可能であることを突き止めました。ただし高度3000メートルの飛行では日本軍戦闘機による迎撃が有利となるため計画は夜間空爆としました。こうして3月10日の空襲「ミーティングハウス2号作戦」が立てられたのです。この計画の目的は木造家屋が密集し工場が存在する下町を焼夷弾で焼き払うことでした。3月10日が選ばれたのは風が強い日と予報されていたからです。
東京大空襲に出撃したB29は325機でした。予報の通り東京上空は強風で日本軍のレーダーは機能しませんでした。しかし、日本軍は千葉県勝浦市の南方上空で正体不明の航空機を発見し、3月9日22時30分にラジオで警報を流しました。しかし、この航空機が日本から離れたため警報を解除しました。この正体不明機は本隊を導くために飛んでいたB29機でしたが、間もなく本隊が東京上空に接近しました。日本軍はその情報をすぐに得ましたが、その直後の3月10日午前0時7分に爆撃が開始されました。空襲警報は遅れて0時15分に発令されましたが既に初回の空爆が行われていました。空襲警報が解除されたのは午前2時37分で長時間にわたる爆撃が行われました。
次々と焼夷弾が各地に投下され、強風の影響で火災は爆撃の目標地点を越えて広がりました。当時の日本の警視庁が発表した被害状況は、死者83,793人、負傷者40,918人、被災者1,008,005人、被災家屋268,358戸とされています。しかしながら実際には行方不明者も多数おり被害者数はこの数値を超えており死者は10万人以上と考えられています。
東京は一夜にして都区内の面積の1/3以上が焼失しました。の面積にあたる約41平方キロメートルが焼失した。火災の旋風で煙は高度1万5000メートルまで達し、竜巻のような暴風が起こりました。火災の規模は想定以上となり消火活動は10日の夜まで続けられました。
東京大空襲は沖縄戦、広島と長崎への原爆投下に並ぶ大きな戦災となりました。東京都墨田区の横網町公園に「東京空襲犠牲者を追悼し平和を祈念する碑」を設置されています。
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