第4話「マシュー・ペリー箱館へ」|明日なき戦いの果てに
黒船艦隊が離日して10日後、将軍家慶が死去した。この事実を知ったペリーは幕政が混乱する中で交渉を有利に進めるため幕府と約束した1年の猶予を反故にし半年後の嘉永7年(1854年)1月に再来日した。合計9隻の艦隊を江戸湾に侵入させ圧倒的な軍事力のもと砲艦外交を行ったのである。幕府は同年3月3日に日米和親条約を締結、伊豆の下田と蝦夷地の箱館が開港された。
ペリーが箱館に視察に訪れたには4月21日だった。このときペリー迎えたのは松前藩だった。幕府は松前藩に箱館開港は知らせていたものの日米通商条約締結は伝えていなかった。松前藩が条約の内容を把握したのは米国から提示された条文を見たときである。松前藩は函館港の取り決めについて権限がないことを理由に交渉を断った。ペリーは5月8日に箱館を出港し下田で幕府と協議をすることにした。
写真はペリーを出迎えた松前藩家老の松前勘解由と従者である。ペリーの艦隊に随行した写真家エリファレット・ブラウン・ジュニアが撮影したもで現存する日本最古の銀板写真のひとつである。
幕府が日米通商条約を知らせなかった背景には蝦夷地の直轄化を目論んでいたからと言われている。実際に幕府は安政2年(1855年)2月に蝦夷地を直轄化し、松前藩の領地を松前城を中心に渡島半島の南西部のみとした。松前藩は代償の領地や手当金を受けたが財政難となった。元治元年(1864年)に松前崇広が江戸幕府老中に就任するも財政難は続いた。同年、幕府による長州征伐が行われ、松前藩は新政府軍として戊辰戦争に巻き込まれていくことになる。
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