第8話「オランダへ航れ」|明日なき戦いの果てに
列強に劣らない軍艦が必要と考えた幕府はタウンゼント・ハリスに軍艦建造を頼んだが米国の南北戦争による混乱を理由に断わられた。そこで幕府はオランダに軍艦を発注し、軍艦の引き取りと西洋式操船や学問を学ばせるため内田恒次郎、榎本釜次郎(武揚)、澤太郎右衛門など長崎海軍伝習所出身者を中心とした留学生15名を派遣した。
文久2年(1862年)6月、彼らは咸臨丸で品川沖を出港し長崎に向かった。同年9月、オランダ船で長崎を出港、途中暴風雨で無人島に漂着するも文久3年(1863年)4月にオランダのロッテルダムに到着した。
釜次郎は長崎海軍伝習所でオランダ人教員から高く評価され、卒業後は築地軍艦操練所の教授となった。この頃、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、ここで江川英龍の縄武館兵学教授の大鳥圭介と出会った。
釜次郎は開陽丸が竣工するまで西洋式船舶、砲術、蒸気機関に加え化学や国際法を学び欧州諸国を視察した。幕府がオランダに発注した最新鋭の軍艦の名前は釜次郎が発案した夜明け前(オランダ語Voorlichter、フォールリヒター)に由来し開陽丸と名付けられた。釜次郎は日本の国情を考え夜明け前を想起したと伝えられている。新しい時代の幕開けを実感していたのだろう。
開陽丸は全長72 m、排水量2590 tの船体に400馬力の蒸気機関と大砲26門(後に35門)を備えていた。速さ10ノット(時速18.5 km)で航行し、クルップ砲の射程距離は3,900 mに及んだ。航海試験を担当したジュール・アーサー・エミール・ディノー海軍大尉はオランダに開陽丸に勝る軍艦はないと絶賛した。1866年12月1日、開陽丸はオランダのブリッシンゲンを出航、アフリカ南端を経てインド洋を渡り1867年4月30日に横浜港に到着した。幕府軍艦奉行の勝海舟が開陽丸を出迎え、榎本武揚は軍艦頭並、澤太郎左衛門は軍艦役並に就任した。
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