« 廷臣八十八卿列参事件(1858年3月12日) | トップページ | 第4話「マシュー・ペリー箱館へ」|明日なき戦いの果てに »

2024年3月13日 (水)

新撰組の日(1863年3月13日)

ココログ「夜明け前」公式サイト

 3月13日は「新撰組の日」です。実は「新撰組の日」はもうひとつあってそちらは2月27日です。2月27日は新撰組の前身となる「浪士組」が文久3年(1863年)2月27日に結成されたことに由来します。3月13日は文久3年(1863年)3月13日に「浪士組」が都守護職を務めていた会津藩預かりとなり「壬生浪士組」と名乗ったことに由来します。こちらは東京都日野市観光協会が制定したものです。

新撰組の隊旗
新撰組の隊旗

 新撰組の中心人物と言えば近藤勇と土方歳三です。

 近藤勇は天保5年10月5日(1834年11月5日)に武蔵国多摩郡上石原村(東京都調布市野水)に農家の三男として生まれ幼名は勝五郎とし後に勝太と改めました。嘉永元年(1848年)11月11日に牛込(東京都新宿区)の天然理心流剣術道場試衛場に入門、万延2年8月27日に府中六所宮で天然理心流宗家四代目襲名披露の野試合を行い流派一門の宗家を継ぎました。流派の門人同士で付き合いを広げました。

 土方歳三は天保6年5月5日(1835年5月31日)武蔵國玉郡石田村(東京都日野市石田)の農家の末子として生まれました。14歳から24歳まで奉公に出て、その後は実家に戻り土方家秘伝薬「石田散薬」の行商を行いながら剣術の修行に励みました。姉が嫁いだ天然理心流の佐藤彦五郎の道場に出入りし、ここで彦五郎と義兄弟の契りを結んでいた試衛館の近藤勇に出会いました。安政6年(1859年)3月9日、天然理心流に正式に入門しました。

 文久3年(1863年)2月、近藤勇と土方歳三は試衛館の同志たちと第14代将軍徳川家茂警護を目的とする浪士組に応募し京都に赴きました。この浪士組は腕が立てば犯罪者でも農民でも応募ができたが、浪士組を発案した清河八郎 は実は倒幕と尊王攘夷の思想の持ち主でした。つまり勇や歳三は清河八郎の策略に騙されて浪士組に応募したことになります。

 八郎は上洛を予定していた将軍家茂の前衛として同年2月8日に浪士組を率いて京都へ向けて出発しました。八郎と浪士組は2月23日に京都の壬生村に到着しました。八郎は同日夜に浪士たちを壬生の新徳寺に集め浪士組全員の署名を取り御所学習院に上書を提出すると説きました。八郎は浪士組を幕府から切り離して尊王攘夷運動をさせることを企てていたのです。しかし、八郎の説明の仕方が巧みだったのでしょう。このときは尊皇論や攘夷論に異論を唱えるものはいませんでした。しかしながら、八郎の説明は幕府と距離を置いた朝廷に偏ったもので違和感をもったものもいたと思われます。上書は24日に提出され、2月28日から浪士組の御所拝観を行う予定があったと伝えられています。

 2月29日、八郎は再び浪士たちを新徳寺に集めました。文久2年8月21日(1862年[1]9月14日)に起きた生麦事件の幕府の処理に不満を感じた英国艦隊が横浜に現れたのです。八郎は江戸へ帰還し英国艦隊に対して攘夷を行うことを唱えたのです。3月3日、朝廷から江戸へ戻るよう沙汰が下りましたが、将軍家茂が京都に来るのは3月4日でした。これによって八郎が発案した浪士組の本当の目的が将軍警護でなく尊王攘夷運動であることが露呈したのです。これに対して芹沢鴨や勇が反発し、浪士組の取締役の鵜殿鳩翁が辞任、後任に高橋泥舟が取締役となりました。こうした混乱で御所拝観が行われたかどうかは定かではなく前日の2月27日に新撰組の原点となる「浪士組」が結成された日とされています。

 3月13日、浪士組は江戸に戻りました。江戸に戻った八郎は4月13日に幕府の命令で暗殺されました。江戸に戻った浪士組は攘夷活動を取らず江戸の治安警備を担う「新徴組」となりました。一方、鴨や勇らは江戸に戻らず京都残留を決め京都守護の会津藩を頼りました。会津藩の野村左兵衛の進言で会津藩預かりとなりました。京都守護職の会津藩主の松平容保は鴨や勇に京都の治安維持組織を結成することを認めました。この治安組織は「壬生浪士組」と呼ばれました。やがて壬生浪士組の内部抗争が起こり、鴨が筆頭、勇と新見錦が局長となりました。

 壬生浪士組 は文久3年8月18日(1863年9月30日)に起きた「八月十八日の政変」に出動、会津藩は「壬生浪士組」に「新撰組」という隊名を授け、同年9月25日に「新撰組」と改名したと伝えれています。新撰組はかつて会津藩で本陣を守る武芸に奏でた優秀なものたちに与えられていた隊名でした。

ココログ夜明け前|Googleニュース

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村

人気ブログランキングへ

Amazonアソシエイトとしてブログ「夜明け前」は適格販売により収入を得ています。

プライバシーポリシー

| |

« 廷臣八十八卿列参事件(1858年3月12日) | トップページ | 第4話「マシュー・ペリー箱館へ」|明日なき戦いの果てに »

今日は何の日」カテゴリの記事

歴史」カテゴリの記事

幕末・明治」カテゴリの記事

明日なき戦いの果てに」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 廷臣八十八卿列参事件(1858年3月12日) | トップページ | 第4話「マシュー・ペリー箱館へ」|明日なき戦いの果てに »