第2話「狙われた港」|明日なき戦いの果てに
浦賀は江戸の入り口に位置することから江戸時代には廻船問屋や干鰯問屋が軒を連ねた。亨保5年(1720年)には江戸湾警備のため浦賀奉行が置かれ万が一の事態に備えて浦賀砲台も整備された。浦賀は湾に出入りする船が必ず寄港する要地となり隆盛を極めた。
異国船の増加により浦賀奉行の役割は重視されるようになったが幕末に活躍したのが与力の中島三郎助である。三郎助は文政4年(1821年)に浦賀奉行与力の中島の長男として生まれ14歳で与力見習いとなった。モリソン号事件で砲術家として活躍、弘化3年(1853年)にアメリカ合衆国のジェームス・ビドルの艦隊が通商条約を求めて浦賀に来航したとき勘違いで幕府の船と一触即発となったところを与力の父らと和平解決に尽力した。
浦賀奉行の海防は幕府に高く評価され江戸から要人が視察に来たときには三郎助が大砲の試射を披露した。下曽根信敦から高島秋帆の高島流砲術を学んだ三郎助の砲術の腕前は江戸で噂になるほど秀逸で三郎助は嘉永2年(1849年)に与力となった。軍艦の必要性が高まると西洋式軍艦の建造が認められるようになり三郎助の大砲を載せた「蒼隼丸」が建造された。
三郎助は大砲や砲台の製作から火薬の調合まで行うようになり浦賀海防の重要人物となった。嘉永3年(1850年)に自身が管理する「玉薬製造所」で爆発事故か発生し「蒼隼丸」などが失われると三郎助は監督不行届で押込処分(自宅謹慎)となったが時代はますます中島三郎助を求めたのである。
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