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2024年2月21日 (水)

安徳天皇が満1歳2か月で践祚(1180年2月21日)

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 安徳天皇は治承2年(1178年)11月12日に高倉天皇の第一皇子として生まれました。諱は言仁で母は徳子(後建礼門院)です。後建礼門院の父は平氏の棟梁の平清盛ですから安徳天皇は清盛の孫にあたります。

安徳天皇(泉涌寺)
安徳天皇(泉涌寺)

 生後約1月の12月15日に皇嗣たる皇太子となり、治承4年(1180年)2月21日に満1歳2ヶ月(数え年3歳)で践祚し同年4月22日に第81代天皇に即位しました。安徳天皇が生まれてまもなく天皇に即位した背景には祖父の清盛の反平家に対する政略がありました。清盛は安徳天皇の即位の前に天皇の祖父にあたる後白河法皇を幽閉し、近衛基通を関白とし安徳天皇の摂政に任じるなど全てを取り仕切りました。清盛は安徳天皇の速にあたり遷都を計画し福原京を開きましたが半年で京都に戻してています。この背景には源氏の挙兵がありました。

 事態が大きく変化したのは治承5年(1181年)閏2月です。平清盛が病に倒れ死去します。平氏の棟梁には清盛の三男の平宗盛が継ぎましたが、宗盛は反平氏勢力の朝廷や各地で起こった源氏の反乱に対応することができませんでした。

 治承4年(1180年)、後白河天皇の第三皇子の以仁王と源頼政が平氏打倒するため以仁王の令旨を発しました。これに源仲家が参戦し以仁王の挙兵がおこりましたが平家によって早期に鎮圧され以仁王、頼政、仲家は戦死しました。この事態に対して仲家の弟で源頼朝、義経の従兄弟にあたる木曽義仲(源義仲)は信濃、上野、越後、北陸で源氏の救援を行い北陸に向かいました。北陸に逃れてきた以仁王の子の北陸宮を庇護し、平家の打倒を進めるため以仁王の挙兵を継承しました。義仲の軍は平家の軍を破竹の勢いで打ち破りながら京都をめざしました。

 治承5年(1181年)、義仲をはじめとする源氏勢力が京都に迫るとついに平氏は京都防衛を断念しました。平宗盛は安徳天皇と皇太子とした守貞親王を擁し、三種の神器を持ち出して都落ちしました。後白河法皇は比叡山に身を隠しました。

最初に平氏が向かったのは九州の太宰府でしたが地元に武士に反発されたためしばらく船で流浪しました。行き先を失った平氏ですが清盛の信頼の厚い家臣だった讃岐と阿波での最大の勢力を誇っていた田口成良の計らいで現在の高松市の北東にある丘陵の屋島に入りました。

 京都では後白河法皇は平氏に三種の神器の返還を求めたが平氏が返還するはずもありませんでした。後白河法皇はやむなく三種の神器のない状態で高倉上皇の皇子で安徳天皇の異母弟の尊成親王を天皇に即位させることに決めました。ところが義仲は天皇に即位するのは以仁王の子である北陸宮であると主張しました。朝廷がこれを受け入れるはずもなく、また義仲は皇位継承に加入したと問題視されました。

 結果として後白河法皇と義仲の関係は悪化しました。後寿永2年(1183年)に後鳥羽天皇が践祚し、元暦元年(1184年)に天皇に即位しました。これによって同時に2人の天皇が存在する異常事態になったのです。やがて義仲の問題に源頼朝が介入するようになり義仲の敵は平氏ではなく頼朝となったのです。

 義仲と頼朝が京都で争っている間に屋島の平氏は勢いを盛り返し再び政権奪還のため京をめざすのでした。そして義仲を打ち負かした源頼朝と平宗盛の間で源平合戦が起こるのです。

 安徳天皇は源平合戦の最後の戦いで平家が滅亡した壇ノ浦の戦いで入水して崩御しました。このとき安徳天皇はわずか数え年8歳でした。安徳天皇は歴代天皇で戦で崩御した唯一の天皇で最も短命な天皇となりました。

 おの戦で源氏は三種の神器のうち八尺瓊勾玉と八咫鏡は取り返しましたが草薙剣は安徳天皇とともに水没しました。しかし、安徳天皇が所有していた草薙剣は形代とされ、伊勢神宮で別の形代の草薙剣が選び出されたことで三種の神器が再び揃ったのです。

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