ペリーが日本初の電信の公開実験を行う(1854年の2月24日)
嘉永6年6月3日に相模国浦賀沖に米国マシュー・ペリー提督が率いる艦隊が現れました。いわゆる黒船来航ですが、ペリーの目的はアメリカ合衆国第13代大統領ミラード・フィルモアの日本に開港と通商を求める親書を江戸幕府に届けることでした。このとき幕府は第12代征夷大将軍徳川家慶が病床に伏せていたためペリーに対して回答に1年間の猶予を要求しました。ペリーもこれを了承し1年後に再び来航することを約束して同年6月12日に離日しました。
しかしながら家慶の病状は回復することなくペリーの離日からわずか10日後に死去しました。同年10月23日に徳川家定が第13代将軍となりました。家慶の死去を知ったペリーは交渉を有利に進めようと大艦隊を率いて約束より半年も早く嘉永7年1月16日に再び来日しました。幕府は術もなく同年3月3日に米和親条約を締結したのです。このときペリーはミシン、蒸気機関車の模型、写真機など多くの品々を幕府に献上しました。
献上品の中にはエンボッシング・モールス電信機がありました。この電信機は米国製で外箱の銘板に「For the Emperor of Japan」と彫刻されていました。この電信機は送信側でモールス信号を打つと、受信側でモールス信号が紙テープに打刻される仕組みです。ペリーは電信に必要な機材を持ってきており、横浜で電信の実験を行いました。送信機と受信機は電線で接続され約1マイル離れたところに設置さました。「YEDO, YOKOHAMA」と入力されたモールス信号は瞬時に送られ電信実験は成功しました。この実験が日本で初めて行われた公式の電信となりました。この様子は「ペリー提督日本遠征記」で読むことができます。
ペリーの電信実験を見た日本人はたいそう驚いたそうです。この技術を使いこなせば世の中が大きく変わることは誰もが想像できました。しかし、ペリーの黒船来航で日本は混乱の時代となり戊辰戦争が終結するまでは電信が普及することはありませんでした。
明治2年(1869年)に英国から通信技師を招き電信の回線が敷設され、東京と横浜の間で電信による電報が始まると、明治政府は電信網の整備に力を入れ数年のうちに全国で電信が普及しました。張り巡らせた。明治10年(1877年)の(明治10年)の西南戦争では電信が活用され戊辰戦争とは異なり情報の伝達が飛躍的に迅速となり政府軍の勝利に貢献しました。
エンボッシング・モールス電信機は日本の電信を発展させるきっかけを作ったものとして平成9年(1997年)に国の重要文化財に指定されました。
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・ペリー提督日本遠征記 (角川ソフィア文庫)
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