北方領土の日(1855年2月7日)
昭和56年(1981年)、日本政府は2月7日を「北方領土の日」と制定しました。
日本は江戸時代から北方領土の開発していました。北方領土への航路を発見し開拓したのは江戸時代後期の廻船業者で商人の高田屋嘉兵衛です。嘉兵衛は寛政11年(1799年)に国後島と択捉島への航路を発見し、翌年の寛政12年(1800年)に辰悦丸で択捉島に渡り島の開拓を行いました。択捉島に多くの漁場を開きました。
安政元年(1854年)12月21日(新暦1855年2月7日)に伊豆の下田(静岡県下田市)の長楽寺で日本とロシア帝国の間で日露和親条約が締結され北方領土が日本の領土として認められたことに由来します。この条約によって択捉島と得撫島(ウルップ島)の間が国境となり、樺太には国境を設けず従来通り両国民の混住地とすると決められました。樺太の国境問題については榎本武揚が特命全権大使を務めた明治8年(1875年)5月7日の樺太・千島交換条約によって決着しました。これによって樺太はロシア領となり、得撫島以北の千島列島全てが日本領となりました。明治38年(1905年)の日露戦争で「ポーツマス条約」で南樺太は日本領となりました。
昭和26年(1951年)のサンフランシスコ講和条約により日本は戦争で得た領土を放棄することになりました。この条約に従って南樺太は日本領ではなくなりました。この領土には千島列島もその中に含まれていましたたが、得撫島 (ウルップ島)以南の北方四島(択捉島、国後島、色丹島及び歯舞群島)は戦争で獲得した土地ではありませんでしたがなくソ連は四島を千島列島の一部であると主張し自国領としました。
北方領土問題では「千島列島」の範囲が争点なることがあります。日本はサンフランシスコ講和条約で放棄した千島列島に択捉島と国後島を含んだいわゆる北方領土は含まれないとしています。千島列島の定義として前出の樺太・千島交換条約で定義されていますが、フランス語で書かれた正式な条約とそれを日本語翻訳した効力のない文書に定義に齟齬があり解釈が異なりました。
第7回国会衆議院外務委員会(第7号昭和25年3月8日)では外務事務官(條約局長)の西村熊雄氏が「その條約の條文を持ちませんので、確とした自信はございませんが、今繰返された文句によれば、例の明治八年の交換條約で言う意味は、いわゆる日露間の国境以外の部分である千島のすべての島という意味でございましよう。ですから千島列島なるものが、その国境以北だけがいわゆる千島列島であつて、それ以南の南千島というものが千島列島でないという反対解釈は生れないかと思います。」と答弁(141)しています。この答弁は昭和31年(1956年2月)に撤回されており、日本は北方領土は日本固有の領土で日本が放棄した千島には含まれていないと主張しています。また榎本武陽が交渉した樺太千島交換条約は平和的な話し合いで締結された条約のためその点から千島列島全体が日本領であるという主張もあります。
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