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2024年2月 2日 (金)

お由羅騒動で島津斉興が隠居(1851年2月2日)

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 島津斉興(しまづ なりおき)は島津家第27代当主で薩摩藩10代藩主です。斉興の後継者としては嫡子の島津斉彬と側室のお由羅との子である島津久光が有力でした。本来は嫡子がいる場合は嫡子に家を継がせますが斉興は斉彬が40歳を過ぎても家督を譲りませんでした。

島津斉彬(左)と島津久光(右)
島津斉彬(左)と島津久光(右)

 その理由のひとつは斉興が久光を溺愛していたからですが、重臣たちも曾祖父の第8代藩主の島津重豪の影響を強く受けた斉彬に藩主を任せられないとか考えたからでです。重豪は洋楽に興味をもち公金を費やすほどの蘭癖(らんぺき)でした。重豪と同様に蘭癖の斉彬が藩主となれば薩摩藩の困窮した財政がさらに悪化すると考えたのです。そのため斉興や家老の調所広郷は久光を後継者にしようと考えました。

 家老の広郷は元は下級藩士でしたが斉興に重用され薩摩藩の財政の改善に取り組んでいました。家督相続せず倹約を強いる斉興と強引に改革を進める広郷に対して若手藩士たちは不満を頂き斉彬を支持していました。嘉永元年(1848年)、斉彬と若手藩士らは藩祖の島津忠恒(家久)以来から行われている琉球での薩摩藩の密貿易を江戸幕府老中の阿部正弘に密告しました。広郷はこの密貿易を利用して財政の改善をしていたのです。この密告は島津家を改易するほどのものですが、斉興に影響が及ぶことを恐れた広郷は一人で罪をかぶり嘉永元年12月19日(1849年1月13日)薩摩藩江戸芝藩邸で自決しました。これによって斉興にお咎めはありませんでしたが、重鎮の広郷を失った斉興は斉彬を恨み久光に家督を継がせるように動きました。こうして久光を擁する派と斉彬を要する派の対立はますます激しくなりました。

 嘉永2年(1849年)12月3日(1850年1月15日)、斉彬派の重鎮らが久光や久光派の重鎮の暗殺を企てた罪で切腹を命じられました。斉彬派の弾圧が進められ重臣や藩士の多くが蟄居や遠島の処分となり、斉彬の家督相続は絶望的となりました。大久保利通の父の利世は喜界島に流罪となり利通も職を罷免され謹慎処分となりました。このとき久光派による理不尽な斉彬派の弾圧を知り、斉彬が襲封すべきと考えていたのが吉之助こと西郷隆盛です。

 斉彬派藩士の一部は脱藩し。斉彬の年下の大叔父だった黒田長溥が藩主を務める福岡藩に逃れました。長溥は薩摩藩からの脱藩者の身柄引き渡しを拒否し、実弟の八戸藩主の南部信順と相談し幕府老中の阿部正弘に事態の収拾を要請しました。斉彬を高く評価していた正弘は斉興に対して茶器を送り暗黙の内に隠居を勧告しました。さすがの斉興も江戸幕府の命令に逆らうことはできず嘉永4年2月2日(1851年3月4日)に隠居し家督を斉彬に譲ったのです。島津家28代当主、摩藩11代藩主となった斉彬は大久保利通と西郷隆盛を抜擢しました。

 さてこの薩摩藩のお家騒動が「お由羅騒動」と呼ばれるようになった所以は久光の母のお由羅が久光の擁立を願って斉彬を呪ったからとされています。斉彬には多数の子女がいましたが多くが幼少で亡くなり嫡子がいなくなりました。久光の子女は無事に育ち嫡子もいたことから斉彬派がお由羅の方をはじめとする久光派を排除する理由としたようです。しかし、根拠はまったくなく、このお家騒動でお由羅の方が咎めを受けることはありませんでした。

 また当事者である斉彬と久光は険悪の仲だったというわけではないようです。斉彬は安政5年7月16日(1858年8月24日)に死去しましたが、第29代島津家当主、摩藩12代藩主となったのは久光の子の島津忠義です。以降、久光はの若年だった島津忠義の後見人となり薩摩藩の中で絶大な権力を得ることになりました。こうして薩摩藩は大政奉還、戊辰戦争、新政府擁立と新しい時代に向かっていくのです。

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