万延遣米使節団が品川出港(1860年1月18日)
嘉永7年3月3日(同年3月31日)、日米和親条約が締結されるタウンゼント・ハリスが安政3年7月21日(1856年8月21日)に来日し初代日本総領事となりました。ハリスは幕府に対して通商条約の締結を求めました。ハリスは消極的な幕府に対しイギリスやフランスがアジア諸国のように日本を侵略して植民地化する可能性を指摘し、米国と通商条約を結ぶことによりその脅威が解消されると説明しました。幕府は通商条約止むなしと考え孝明天皇の勅許を得た上で条約を締結することにしました。しかし、攘夷派の公家達が反対し、孝明天皇も異国と対等な立場となることは日本の秩序を壊すと考え勅許を出しませんでした。開国を迫る米国に対して諸外国を排除しようとする攘夷論が高まりましたが、西洋の軍事力には敵わないと考えた幕府大老の井伊直弼は孝明天皇の勅許を得ないまま安政5年6月19日(1858年7月29日)に日米修好通商条約を締結しました。
日米修好通商条約の批准書交換は米国で執り行うことになりました。このために幕府が派遣したのが江戸幕府の外国奉行の新見正興(新見豊前守)正使が率いる遣米使節団です。この使節団は蒸気船ポータハンで米国に向かうことになりました。
幕府は万一に備えて護衛のため軍艦を同行させることにしました。派遣する軍艦は最初は朝陽丸が選ばれましたが観光丸に変更となり最終的には咸臨丸と決定されました。
咸臨丸を派遣するにあたって軍艦奉行並の木村喜毅が軍艦奉行に昇進し司令官となりました。木村は軍艦操練所教授の勝海舟をはじめとする海軍伝習所出身者を乗組員に選びました。通訳には米国の滞在経験のある中濱万次郎、木村の従者として福沢諭吉が乗り込みました。咸臨丸の修理は浦賀の乾ドックで中島三郎助らが行いましたが中島はこの航海には参加していません。
安政7年1月18日(1860年2月9日)、遣米使節団は品川でポーハタンに乗艦し同年1月22日(同年2月13日)にサンフランシスコに向け出港しました。一方、咸臨丸は同年1月13日(同年2月4日)に品川を出港、浦賀で難破船のアメリカ海軍測量船フェニモア・クーパーの船長ジョン・ブルック大尉他11名を収容し同年1月19日(同年2月10日)に浦賀を出港しました。間もなく荒天となり咸臨丸は日本人の手に負えない状態となり、アメリカ人が操船することになりました。同年2月27日(同年3月18日)にサンフランシスコに到着しました。もし浦賀でブルックらを収容していなければ咸臨丸は行方不明になっていたかもしれません。
ポータハンも荒天に見舞われました。石炭の補給のため同年2月13日(同年3月4日)にハワイのホノルルに寄港しました。このとき使節団はハワイ国王カメハメハ4世に拝謁しています。同年2月26日(同年年3月17日)ホノルルを出港、同年3月8日(同年3月28日)にサンフランシスコ到着、同年3月11日には市長主催の歓迎式が行われました。
咸臨丸は任務を終了しましたが損傷が多く修理に時間を要しました。この間に咸臨丸の乗員はサンフランシスコで過ごし見聞を広げました。使節団はワシントンに向かいましたが咸臨丸はサンフランシスコを出港し同年5月5日に浦賀に帰還しました。咸臨丸は途中ハワイ王国に立ち寄りました。5名の米国人が搭乗していましたが好天が続いたため日本人のみの操船でした。
使節団は万延元年3月17日(同年4月7日)にサンフランシスコを出港しパナマへ向かいました。同年閏3月4日(同年4月24日)にパナマに到着し、パナマ地峡鉄道で大西洋側のアスピンウォール(コロン)に向かいました。ここで蒸気フリゲートのロアノーク号乗り換えワシントンに向かいました。使節団がワシントンに到着したのは同年閏3月25日(同年5月15日)です。翌26日(5月16日)にはカス国務長官を訪問し、27日(5月17日)にブキャナン大統領に謁見し批准書を渡した。4月2日(5月22日)批准書が交換され日米修好通商条約締結が完了しました。

万延遣米使節団(ワシントン)
正使新見正興(中央)、副使村垣範正(左から3人目)、監察小栗忠順(右から2人目)
勘定方組頭、森田清行(前列右端)、外国奉行頭支配組頭
成瀬正典(前列左から2人目)、外国奉行支配両番格調役、塚原昌義(前列左端)
使節団は同年4月19日(同年6月8日)にワシントンを出発、フィラデルフィアやニューヨークに滞在し同年5月12日(同年6月29日)、蒸気フリゲート艦ナイアガラでニューヨークを出港し帰国しました。ナイアガラは大西洋回りでアフリカ大陸に向かい同年7月11日(同年8月27日)には喜望峰を通過しインド洋を進みました。途中ジャカルタ、香港を経由し同年9月27日(11月9日)に品川に帰還しました。
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