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2024年1月 9日 (火)

有為転変の人生|渋沢成一郎と渋沢栄一

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 渋沢成一郎は天保9年(1838年)に武蔵国血洗島村(埼玉県深谷市血洗島)の渋沢文左衛門の長男として生まれました。渋沢家は血洗島村で養蚕業を営み市郎右衛門を襲名する名主ですが、文左衛門の家は分家筋でした。本家の跡継ぎがいなかったため文左衛門の弟の源助が婿養子となり渋沢市郎右衛門を襲名しました。その市郎右衛門の長男が渋沢栄一です。成一郎は栄一より2歳年上で従兄にあたります。

 成一郎と栄一は幼少期に10歳ほど年上の従兄の尾高惇忠のもとで儒教や日本史を学びました。尾高惇忠は第9代水戸藩主の徳川斉昭の鷹狩りを見て水戸学に傾倒していました。水戸学は第2代水戸藩主の徳川光圀が始めた「大日本史」の編纂を通じて水戸家代々で培われた尊王攘夷論の基本となった学問です。

尾高惇忠(左)・渋沢成一郎(中)・渋沢栄一(右)
尾高惇忠(左)・渋沢成一郎(中)・渋沢栄一(右)

 惇忠の影響を受けた成一郎と栄一は江戸に赴き儒学者の海保漁村の私塾の掃葉軒で学び、北辰一刀流の千葉栄次郎の道場に入門しました。この道場で勤王の志士たちと出会い尊皇攘夷を目指すようになりました。

 惇忠、成一郎、栄一は特に尊皇攘夷の具体策はもっていませんでしたが何かやらねばと考え、文久3年(1863年)に上野国群馬郡(群馬県高崎市)の高松城乗っ取り計画を立てました。その計画は高松城で兵備を整えて鎌倉街道を進軍し横浜の外国人居留地を焼き討ちにして攘夷を行い、その後は長州藩と幕府を倒すというものでした。実行日は文久3年11月23日とされ千葉道場や掃葉軒の塾生らの同志69名が参加する予定でした。これより少し前の同年10月29日、京都に赴いていた惇忠の弟で尊皇攘夷の志をもつ尾高長七郎が戻りました。京都で幕府への攘夷委任を支持する勢力が起こした「八月十八日の政変」などを見た長七郎は3人の計画が無謀であり中止するべきであると説得しました。

 成一郎と栄一は尊皇攘夷の計画がばれると親族に迷惑がかかるため渋沢家から勘当されたことにして京都へ赴きます。京都では「八月十八日の政変」の影響により尊皇攘夷の勢力が衰退し尊皇攘夷の活動などできる状態ではありませんでした。このとき2人が出会ったのが江戸の遊学で知り合いとなり家来になることを決めていた幕府の一橋家家臣の平岡円四郎でした。2人が円四郎の家臣となったのは活動しやすくなると考えたからです。幕府の家臣の家来となっても尊皇攘夷の志を捨てるつもりはなく倒幕を考えていました。

 文久4年(1864年)、成一郎と栄一と京都で落ち合う約束をしていた尾高長七郎が誤って通行人を斬りつけ殺害し捕まりました。このとき超七郎は成一郎と栄一の書簡を持っており2人が尊皇攘夷で倒幕の志を持っていることがばれてしまいます。まもなくこの件は円四郎にも伝わり、成一郎と栄一は絶体絶命になってしまいます。すると円四郎は2人に一橋家に出仕するよう勧めたのです。一橋家の士官になるということは志に反することになりますが、長州や薩摩に逃げる伝もなく、死んでしまったら元も子もないので円四郎に頼らざるを得ない状態でした。一橋家の当主は水戸斉昭の子息の一橋慶喜で朝議参与として京都に滞在しており江戸幕府とは異なる考えを持っていました。慶喜に仕えることは尊皇攘夷に反することはないと考えました。間もなく慶喜は天皇の禁裏(京都御所)を警護する禁裏御守衛総督を務めることになり、成一郎と栄一は兵力調達を行いました。

 慶応2年(1866年)12月、2人は転機を迎えます。慶喜が第15第征夷大将軍となったのです。2人は揃って幕臣となりましたが、栄一は1867年にフランスのパリで開催された万国博覧会を訪れました。このとき栄一はヨーロッパ各国を訪れ先進的な政治や産業の近代社会に目覚めます。その間に日本では大政奉還が行われ栄一は慶応4年11月に帰国しました。帰国後、栄一は新政府の官僚として働き、その後は実業家に転身、ヨーロッパでの経験を活かし数々の功績をあげます。

 一方、成一郎は幕臣として鳥羽・伏見の戦いに参戦します。慶喜が江戸に戻ると将軍警護のため彰義隊を結成し頭取となります。慶喜の謹慎場所が江戸から水戸に移ると、彰義隊を上野から撤退させようとしましたが副頭取の天野八郎が強硬に反対したため成一郎は彰義隊から脱退しました。その後は振武軍を結成し武蔵国入間郡飯能(現埼玉県飯能市)に移り官軍と戦いますが敗走します。榎本武揚の艦隊に合流し振武軍と彰義隊を合わせ新たに彰義隊を結成、箱館戦争に参戦します。箱館戦争が終結する直前は中島三郎助らと千代ヶ岡陣屋を守備していましたが、中島三郎助が討ち死にを覚悟で戦うと慶応4年(1869年)5月15日に旧幕府軍を脱走しました。成一郎は新政府軍への敵対心が人一倍強かったようですが、かつて幕臣になると決断したとき栄一と死んでしまったら元も子もないという話を思い出したのかもしれません。

 函館の湯の川方面に潜伏していましたが1か月後には新政府軍に投降しました。その後、投獄されましたが渋沢栄一が身元引受人となって赦免され明治政府の役人として働き、その後は栄一と同様に実業家に転身しました。

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