戊辰戦争(鳥羽伏見の戦)の開戦(1868年1月3日)
慶応3年(1867年)12月9日、京都御所の御学問所にて明治天皇より勅令「王政復古の大号令」が発せられ新政府が樹立し260年間続いた江戸幕府が終焉しました。
当初は孝明天皇と徳川慶喜は公武合体により慶喜が政治の中心的な役割を果たすことになっていました。しかし、孝明天皇が崩御し尊皇攘夷派の薩摩や長州の勢力が新政府の主導権を握ると、徳川家は領地返納、徳川慶喜は内大臣を辞職させられることになりました。
表向きは恭順したように見せかけた慶喜は二条城から大阪城に移り、大阪の地の利を活かして政治的に優位に立とうとしました。各国大使には外交はこれまで通り徳川家が行うと宣言、やがて新政府内でも佐幕派の公議政体派が徳川家再生を図ったため大政奉還後の徳川家への厳しい対応は綻び始めました。
この状況を憂慮した薩摩藩の西郷隆盛は幕府を挑発し江戸の町を撹乱するため江戸を中心に関東各地で勤王派浪士たちに薩摩の手の者とわかるように著名な商家を襲撃させました。この浪士たちの中には狼藉者も多数含まれており江戸市民の間で薩摩御用盗と呼ばれ恐れられました。
幕府は江戸市中取締を強化しましたが浪士達を刺激しないよう配慮したため被害は拡大していきました。やがて江戸城の西の丸が放火により消失したり、江戸市中警備にあたっていた庄内藩の屯所への発砲事件が起こったりすると、ついに幕府は江戸薩摩藩邸を包囲し交渉に応じないため砲撃を開始しました。この事件は幕府と薩摩藩の開戦と見なされ、慶喜は朝廷に薩摩藩の罪を訴え薩摩藩を掃討するため京都に軍勢を送りました。
慶応4年(1868年)1月2日、幕府の軍艦2隻が兵庫沖で薩摩藩の軍艦を砲撃、翌1月3日に慶喜は大坂で各国に対し薩摩藩と開戦したことを宣言しました。同日、大坂の薩摩藩邸を襲撃、さらに京都郊外で新政府軍と旧幕府軍による鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まったのです。
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